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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
吉村慶子さん [画像を表示]

吉村慶子さん (2023/02/08)
2012年2月号吉村慶子さん.JPG
吉村慶子さん(左)、隆さん夫妻
 1957年4月、南リオ・グランデ州サン・ルイス・ゴンザガ市の「デラ・ジュスチーナ耕地」に入植し、約1年間過ごした経験を持つ吉村慶子(よしむら・けいこ)さん(71、青森県出身)。渡伯して今年で55年目を迎えたが、同耕地での良い思い出は数少ない。
 慶子さんは、青森県田名部(たなぶ)(現:むつ市)で8人兄妹の長女として生まれた。寒さで厳しい環境の中、学業どころではなく弟妹の世話に追われた。満州に行っていた伯父が戦後帰国。慶子さんの父親・工藤不二郎さん(94年、80歳で死去)は分家して独立。気候が良いと言われるブラジル行きを決めた。
 ジュスチーナ耕地は、(財)日本海外協会連合会(現:JICA)が斡旋し、歩合契約農を条件として募集。山口県出身者を中心に福岡県、青森県など14家族97人が集まった。
 57年3月上旬、「さんとす丸」で神戸港を出港。同年4月下旬に南伯のリオ・グランデ港に到着し、サン・ルイス・ゴンザガまでは当時、汽車で10時間以上かかっている。
 耕地では気の良いイタリア系のパトロンが、「アルファルファ」と呼ばれる牧草と汽車用の枕木などを生産していた。しかし、コロノ(契約農)用の掘っ立て小屋しかなく、昼間の太陽光線で壁板の木の皮が曲り、雨が降るとその隙間から雨水が漏れるような状態。「気候が良い」と思って来たが、冬場には霜柱が立つほどの寒さだった。
 一方、夫の吉村隆(たかし)さん(82)は義兄の佐久本兼助氏と構成家族をつくり、同耕地に慶子さん家族たちと一緒に入植。隆さんは入植当初から青年会を結成。仕事が遅れている家族の援助などを率先して行った。
 ある時、汚い水に浸かりながら水田づくりを行っていた慶子さんはリウマチにかかり、身体全体が腫れあがった。ちょうど入植者全員で身分証明書を作る必要があり、セルラルゴという町に出ることになった。父親は事前に通訳に「病院を世話してほしい」と頼んでいたが、通訳官は書類手続きなどですっかり忘れていた。父親は娘のことを言い出しにくく、仕方なくそのまま帰ろうとした時だった。傍にいた隆さんが「彼女を病院に連れて行かないのですか」と詰め寄り、慶子さんは病院に行くことができた。
 「(隆さんのことは)日本にいる時から知っていたけれど話もしたことがなく、青白い顔をして『この人、何しにブラジルに行くの』と思っていたくらい。それが命の恩人となり、ブラジルで暮らしていくのに自分が片腕くらいにはなれると思った」
 最低限の食糧はあったが、耕地には営農の指導者がいない。家長会議を開いては何をどう植えるかなど話し合ったが、手立ては見つからなかった。入植半年して将来の目処が立たず、海協連に談判した結果、日本から現状視察に来た政府関係者が不適格地と判断。脱耕者が相次いだ。
 耕地で慶子さんと結婚し家長となった隆さんは、パラナ州カルロポリスに住むコチア組合員の山本勝雄氏が引き受け先となり、5家族一緒に同地に移転。同地の伊藤直(すなお)氏(故人)の下で、2年間カフェ生産を行った。
 その間、伊藤夫人に家事一切を叩き込まれた慶子さんは「あの時はきつかったけれど、今から思えばいろいろなことを教えてもらって助かった」と振り返る。
 60年、モジ郡コクエーラの養鶏場で働いていた義兄の佐久本家族の呼び寄せにより、引っ越し。同地で蔬菜(そさい)の歩合作を行い、3年後には現在のビリチーバ・ミリンへ転住した。
 61年の長男の誕生をはじめ、4人の男の子に恵まれた。その間、慶子さんは子どもを背中に負ぶったまま畑仕事も手伝ってきたが、「寒い日本が嫌だったので、日本に帰りたいとは思いもしなかった」と話す。
 ビリチーバ・ミリンでずっと野菜づくりに携わってきた吉村家は、2000年に同じハウス栽培で花卉(かき)生産に切り替えた。5、6年前には日本に出稼ぎに行っていた三男が帰国。ラン栽培を継ぎ、軌道に乗せている。
 「今から思えばブラジルでの生活も、あっという間だったわ」と慶子さん。今も家族とともに花作りを続けている。(2012年2月号掲載)


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