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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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為広明さん (2023/02/25)
2012年4月号為広明さん.jpg
 「ワシは(ブラジルに来て)悔いはないです」―。パラナ州サン・セバスチャン・ダ・アモレイラ市の中心地で61年間にわたってガソリン・ポストを経営する為広(ためひろ)明さん(87、香川県出身)は自らの人生を振り返って、そう語る。今年(2012年)、渡伯して75年の節目の年となり、6月7日には米寿の誕生日を迎える。
 8人兄妹の五男として香川県丸亀で生まれた為広さんは、父母や兄妹ら8人家族で1937年10月2日、サントス港に到着。聖州リンスのウニオン植民地に入植した。13歳の時だった。
 為広家族は、戦前ブラジルに渡った経験を持つ同県人の再渡航者に誘われた。当初は長兄が家長として家族を率いるはずだったが、諸事情により父親が家長となった。
 「自分らはまだ子供だったし、ピクニックにでも行くような気分で船に乗りました」
 ウニオン植民地では日本人のパトロンに世話になり、25町歩の土地でカフェ生産を行った。しかし、当時カフェはすでに生産過剰となっていた。1年間の義務農年を含む計3年間を同地で過ごした後、父親たちが事前に他の土地を探しまわり、40年11月頃にパラナ州のトレス・バラス(アサイ市)に土地を契約して購入、移転した。
 アサイまでの移動はカミヨン(トラック)だったが、途中で雨が降り荷物の半分を汽車で送らざるを得ず、1週間の行程が2倍かかったという。テラ・ロッシャの赤土は、いったん雨が降ると道がぬかるんで車は動けない。
 「普通の靴で歩こうものなら、靴の裏に泥が数十センチもついて、滑ってとても歩けたものじゃなかった」
 契約当初の話では、原始林の山焼きが終わり整地されているはずだったが、実際に耕地に入ってみると大木の枝などが無数に残っていた。仕方なく、入植当初は道端に作物を植えたという。山焼きも完全ではなく、耕地の奥で原始林を焼く火が点いた光景を見ながら、為広さんは家族の手伝いを行い、50年までの10年間にわたって農業生産活動を続けた。
 品物不足だった当時、為広さんはアモレイラの町に出て農作物販売を中心とした雑貨商を1年間営んだ。51年には富江夫人(山形県出身)と結婚して独立したこともあり、雑貨商は兄に任せてガソリン・ポストの経営に踏み切った。
 日本にいた時、長兄からはよく「これからは車の時代。運転免許を早く取れ」と言われていた。そのことが頭にあった為広さんは、戦後すぐの46年にブラジルで運転免許を取得。戦争の影響が色濃く残っていた時代で、外国人として免許を取ることは珍しかったようだ。
 当時、ガソリン・ポストはアサイに二つあっただけ。アモレイラではガソリンの販売人はいたものの、ポストはなかった。為広さんは車修理の技術者を雇い、修理からオイル交換なども行うようになった。商売をやっていくために、50年代後半にはブラジル人に帰化した。
 「最初は修理を行うバラコン(倉庫)もなく、道でやっとった。当時は結構売れたが、車の数も少なかったし」と為広さん。謙遜するが、一時は自身で三つのガソリン・ポストを持つなど、隆盛を誇った。
 現在はアモレイラにも競争相手のガソリン・ポストが多くなり、市場競争も激しくなった。他のポストが質の悪い安価なガソリンを販売する中、為広さんは品質にこだわり、顧客との信頼関係を特に大切にしてきた。
 また昨今では、伯国内で環境問題も重視されるようになり、時代の流れにより昔ながらのやり方が難しくなる中で、昨年1年かけてガソリン・ポストを改修。そのことによって客足も増えたという。
 娘たちに支えられながら為広さんは、今でも現役を貫き通している。(2012年4月号掲載)


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松本浩治 :  
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