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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
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辻義基さん (2023/03/03)
2012年5月号辻義基さん.jpg
 旅行者としてサンパウロ州第1アリアンサにある弓場(ゆば)農場に立ち寄り、その虜となった辻義基(よしき)さん(61、兵庫県神戸市出身)。辻さんは中学生時代から旅行が好きで、暇を見つけては自転車で日帰り旅行などを繰り返していた。それが高じて大学時代には西日本を自転車で1周。日本海側を通って北海道にも行った。
 社会人になり、超音波を使用した検査技師となったが、海外に行きたいとの思いが断ち切れず、自転車でユーラシア大陸を横断する冒険旅行を計画した。そのためのトレーニングと資金を稼ぐために会社を辞め、アルバイトで貯めた金で当時の最新式の十段変則自転車を購入した。
 自転車を分解し飛行機に積み込んだ辻さんは、1975年2月に日本を出発。当時はベトナム戦争も終盤に入っていたが、アジア諸国は戦乱のため入国することができず、インドのデリーが冒険旅行の最初の出発点となった。海外旅行が日本で自由化されたのは70年からで、1ドルが280円の時代。しかも自転車で海外を周る冒険旅行は当時珍しく、マスコミにも何度か取り上げられた。
 旅行中、特に危険な目に遭ったことはなかったと話す辻さんだが、未知の世界での単独行は緊張の連続だった。イランではふとした油断からカメラを盗まれたが、レストランの店主が取り戻してきてくれたという。
 インド、パキスタンを経てユーラシア大陸を西に進路を取った辻さんはヨーロッパは周らず、エジプトからアフリカ大陸を南下。目標は最南端のケープタウンだったが、金銭的な余裕のなさと兄の結婚式が目前に控えていたこともあり、1年2か月におよぶ旅行を中断し、タンザニアから日本に一時帰国した。
 今度は北米から南米を同じく自転車で縦断する計画を立て、78年3月に飛行機でアメリカのロサンゼルスに飛んだ。2回目の海外旅行に挑んだ辻さんは、ロスから北米大陸を南下し、南米に進路を取るルートを選んだ。これを成功させれば、ほぼ世界を一周することになると意気込んだ。
 メキシコ、エルサルバドルなど順調に進んできた辻さんだが、当時ニカラグアでは空軍がゲリラに爆撃を加えたことがきっかけで内戦が行われており、エルサルバドルで足止めを食っていた。日本大使館の情報で「危険だから通らない方が良い」と言われた辻さんは、自転車ではなくバスに飛び乗り、一気にニカラグアを駆け抜けた。コスタリカに入った翌日にニカラグアの国境が封鎖。「運が良かった」と辻さんは、当時を振り返りながら苦笑する。
 中米を経て、パラグアイからフォス・ド・イグアスーに入って強烈な下痢に襲われたことが、弓場農場に行くきっかけを作った。
 「サンパウロに直行するつもりやったけど、急ぐ旅でもなかったんで、1、2週間滞在するつもりが、気が付いたら半年たっていた」
 「自分の仕事さえしていれば金の心配をしなくてもいい」弓場農場に魅力を感じ始め、しだいに日本で住む気持ちが薄れた。と同時に辻さんには一つの目標があった。それは「30歳になったら旅行をやめること」だった。
 農場で住むことを真剣に考えた辻さんは最も手っ取り早い方法として、弓場家の親族と結婚することを思いついた。その思いを現在の妻・順子さんに伝えたのは弓場農場を出る3時間前だったという。
 正式に弓場農場に移住するためブラジルに戻った辻さんは、営農作物づくりとしてシイタケ栽培に着手した。しかし、何の知識もない中で独学で栽培を始めたが上手くいかず、ブラジリア在住の日本人から講習を受けたりと知識を付けるためには悪戦苦闘した。菌作りに3、4年の年月を費やしたが、その後は何とか軌道に乗るようなり、現在では換金作物の一つとして農場を支えている。
 今年(2012年)6月9日には、弓場農場で生まれ育ち、現在は聖州プレジデンテ・プルデンテでマッサージ師として働く次女の結婚式を控えており、時代の流れを感じている辻さん。今後の思いとして、青年時代に駆け巡った世界の現在の様子を再び自分の目で見てみたいと話し、笑顔を見せた。(2012年5月号掲載)
            


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松本浩治 :  
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