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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
相楽三好さんと幕田セツイさん [画像を表示]

相楽三好さんと幕田セツイさん (2023/03/27)
2012年8月号相楽三好さんと幕田セツイさん.jpg
 5歳で生き別れとなり、それぞれ日本とブラジルに住む日本人双子兄妹の米寿(88歳)祝賀会が2012年5月20日、サンパウロ市内で行われた。米寿を迎えたのは東京都に在住する相楽三好(さがら・みつよし)さんとサンパウロ市ビラ・モラエス区に住む幕田(まくだ)セツイさんの兄妹。1924年5月12日生まれの2人は今回で6回目の顔合わせとなるが、初めての共同誕生日会で家族たちに祝福され、幸せそうな笑顔を見せていた。
 福島県田村郡谷田川村(現・郡山市)で生まれた2人は1929年、父親の喜久一(きくいち)さん(当時34歳)を家長に母親のセキさん(同29歳)、叔母、兄妹4人の家族7人でブラジルに渡る予定だった。しかし、当時5歳だった三好さんは目の病気であるトラホームに罹患(りかん)していたため、1人だけ福島県に住む祖父母に預けられ、渡伯した家族と生き別れの状態となった。
 福島県内の私立学校を15歳で卒業した三好さんは、16歳の時に地元にあった「日東紡績」会社に入社。その後、20歳で兵隊検査を受けて徴兵され、横浜にあった「高射砲連隊」に配属された。
 終戦後、福島県に戻った三好さんは、地元谷田川村の青年団長に選ばれた。ある日、青年団員たちと見学に行った「高畠(たかはた)鉱山」で、祖母(母方)と同じ村出身者で後の国会議員となる白石正明氏(故人)と知り合い、入社を勧められた。白石氏は三好さんを同鉱山の支山の事務責任者に抜擢するなど、我が子のように面倒を見てくれた。しかし、白石氏の死後に鉱山を退社した三好さんは28歳で東京に出ることに。
 「もう少し勉強がしたい」との思いで受験した専修大学に合格した三好さんだったが、経済的に苦しく大学への進学を断念。東京都港区の「保土谷化学工業」に就職し、社内で運送関係の仕事を任された。同社に10年間働いた後、夫人がタイプライターの経験があったこともあり、東京都内に自身で印刷業を開業した。
 戦後になって、ブラジルに住む家族との手紙でのやりとりなどから伯国への思いもあったという三好さんは、渡伯した父母が70年ごろに約40年ぶりに一時帰国し、出迎えた羽田空港で両親との再会を果たした。その際、故郷・福島に両親を案内したことを今もよく覚えている。80年代後半には念願だったブラジルへも初めて訪問し、約60年ぶりに双子の兄妹であるセツイさんと再会することができた。
 一方のセツイさんは29年、家族とともに5歳で「まにら丸」に乗って海を渡った。ブラジルに到着した相楽家族は、聖州モジアナ線の「サンタ・リッタ」コーヒー農園に入植。しかし、生活が苦しく同地域を転々とした後、聖州バウルー付近のドメーラという場所に家族で転住した。親たちの勧めで同じ福島県人の幕田勇七(ゆうしち)さん(故人)と22歳で結婚したセツイさんはパラナ州アサイに移り住み、子供6人(5男1女)を同地で出産した。
 「朝は3時か4時に起きて仕事をしたり子供の面倒をみたり、畑仕事を手伝って手にマメができたり、馬車に乗ったりと何でもしましたよ」
 夫の勇七さんを事故により59歳の若さで亡くしたこともあり、セツイさんはサンパウロに移り住みリベルダーデ区で13年間にわたってペンソン経営をしたり、日本に出稼ぎに行った経験もある。
 今回で6年ぶり6回目のブラジル訪問となり、これまで伯国の親戚の案内でアマゾン地域やイグアスの滝など各地を歩き回ったという三好さん。「ブラジルは日本よりも良くなる」と現在の伯国の経済発展を目の当たりにしながら、「ブラジルの皆さんにこうして祝ってもらって幸せですよ」と終始笑顔を見せていた。
 また、セツイさんは「私は苦労と言っても両親と一緒だったから大した苦労でなかったけれど、(三好さんは)大変だっただろうね」と長年家族と離れ離れになっていた双子の兄の心情を気遣っていた。(2012年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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