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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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宮島右近さん (2023/04/03)
2012年9月号宮島右近さん.JPG
 「今でも農業が好きです」―。こう語るのは、1970年、パラー州ベレン市近郊第2トメアスー移住地にあった日米混血児受入施設「エリザベス・サンダースホーム」の農場に勤務した経験を持ち、アマゾン地域でコショウ栽培などを行ってきた宮島右近(みやじま・うこん)さん(77、東京都生れ)。2003年からは、サンパウロ近郊ビリチーバ・ミリン市に転住し、鍼灸業を行う傍ら、アマゾンで生活した思いなどを小説や随筆として書き記す活動を続けている。
 父親がプロテスタントの牧師をしていたという宮島さんは、その布教活動のため、家族に連れられ日本全国を転々とした。岩手大学農学部を卒業した後、農協、不動産セールスなど幾つもの職業を経て、岩手県内の農業高校の教師をしていた際に、自身も農業生産そのものに改めて目覚めた。
 「広い土地で農業がしたい」とブラジル行きを決めたが、家族は大反対。神奈川県内の教会で知り合ったという夫人の姉が、エリザベス・サンダースホーム創設者の故・沢田美喜(さわだ・みき)氏を知っていたことから面接を受け、アマゾン地域のベレン市近郊第2トメアスー移住地にあった「ステパノ農場」に行くことに。反対だった父親も「沢田さんの所なら」と渋々納得したという。 
 宮島さんが渡伯したのは35歳の時。すでに子供が2人、日本で生れていた。当時、同ホームには、20代半ばの混血入居者たちが数人おり、独立心が強かったことなどから農場責任者として入ってきた宮島さんに対して、必ずしも良い気持ちを持っていなかったようだ。
 宮島さんは結局、半年ほどで農場を出ることになり、ベレンから約140キロ離れたノーボ・チンボテウアに移り、独自にコショウ栽培を始めた。こうした生活の中でも宮島さんは書くことが好きで、暇を見つけては地元の文学系雑誌などに投稿していたという。
 10年間かけて約1万本のコショウを育て上げたが、病気が入って全滅する事態に陥った。その後は自分で作った野菜やピンガなどを、周辺のガリンペイロ(金鉱掘り)などを相手に売り歩くなどし、「ようやく生きていける状態」(宮島さん)で生活を支えた。 
 それでも農業が好きで、ノーボ・チンボテウアの25ヘクタールの土地では熱帯果樹や野菜などを作り続けた。80年には、カナダから来ていた日系牧師に習い、針灸の技術も身に付けた。
 そうした中、33年間続いたアマゾンでの生活に見切りを付けたのは、同地で2回も強盗に入られたことが原因だった。手を切られ、背中を棍棒で殴られたりし、「熱帯の気候が好きで、本当はアマゾンを出たくなかったのですが、仕方なくサンパウロに出ました」という。
 半年間、自分たちの住む土地を探し歩いてようやく見つけたのが、現在住んでいるビリチーバ・ミリン市だった。同地で針灸業を行いながら、元々好きだった雑誌社などへの投稿も続けた。
 1997年頃には講談社発行の文芸雑誌「群像」の新人賞1次試験にパスし、また「潮(うしお)」(潮出版社)では佳作に入った経験も持つ。また、2004年には宗教関連誌が主催する公募で奨励賞を受賞したほか、05年11月から06年4月まではニッケイ新聞の連載小説として「原始林の歌」が掲載された。 
 毎日午前3時に起床し、遅くとも午後8時には就寝するという宮島さんは、毎週日曜日にはモジ・ダス・クルーゼス市にある日系のメソジスト教会に通う生活を続けている。バイア州に移転する話もあったが諸事情で取り止めとなり、これまで続けてきた鍼灸業を今年(2012年)10月から改めて再開するという。
 現在も執筆活動を行っており、今後も随筆を中心に自らがアマゾンで経験してきた思いなどを書き続けていく考えだ。
 
◆エリザベス・サンダースホーム
 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎氏の孫である沢田美喜氏が、日本の戦後混乱期に米兵と日本女性の間に出生した混血孤児たちの養育施設として1948年に神奈川県に建設。財閥解体で接収されていた岩崎家の別荘を苦労して買い戻した。さらに65年には、大人になった孤児たちが差別のない社会で働けることを目指して「ステパノ農場」をアマゾンの第2トメアスー移住地に建設した。(2012年9月号掲載)       


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松本浩治 :  
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