瀬古興平さん (2023/04/10)
パラー州ベレン市近郊にあるマリツーバの農園で熱帯果樹やラン栽培を行う瀬古興平(せこ・こうへい)さん(72、滋賀県出身)。現在、熱帯果樹や薬草類などの生産物を輸出する会社を経営している。 瀬古さんは19歳になる直前、同じ滋賀県出身で戦後アマゾンへの日本人移植民事業を個人名義で行った故・辻小太郎(つじ・こたろう)氏の呼寄せで、単独青年として1959年に渡伯。辻氏が経営していた「辻商会」で働くことになり、アマゾナス州パリンチンスでジュートの目方売りなど基本的な仕事を覚えさせられた後、パラー州サンタレンのジュート工場本店に転勤となり、8年間を同地で過した。 その後、「ジュート産業は長くは続かない」と見越して退職し、28歳でベレンに出た。新しい仕事としてコショウを火力乾燥させるための耐火レンガ作りを行ったが、軌道に乗る直前に資金が尽きた。 瀬古さんは、辻商会時代の先輩で日本から進出していた商社のベレン支店に勤めていた日本人を頼り、融資の交渉に行った際、先輩の上司からは「こいつに金を貸すなら、ウチの会社に来いと言え」と伝えられ、思いがけず商社に入社することになったという。 商社に入ってからの仕事は電気メーカーの輸送担当役だったが、「土、日(曜日)は、自分の時間として使え」と上司からの助言を実行し、78年頃から内職的にクプアスーなど熱帯作物の栽培を独自に始めた。また、休日になると近くの山を歩き回り、薬草を見つけるなどしていたことが、後年になって健康飲料や精力剤の販売など自分で商売を始めるきっかけとなった。 80年代半ばには会社側から「給料はいくらでも出すからコショウ部門を受け持ってくれ」と言われ、担当替えとなった。「一夜にして三段飛びで偉くなった」瀬古さんに、大きな転機が訪れた。その頃、コショウ産地には泥棒や強盗が多く、社会的な不安定感が蔓延していた。そのため瀬古さんは1500トンの収容能力がある商社の倉庫を利用して富裕層からコショウを預かり、南米諸国やヨーロッパなど高値での販売を実践した。85年にはメキシコ大地震が発生。東京本社からの商社マンが現地入りできない中、瀬古さんはメキシコに飛び、現地での任務を遂行させるなど会社への貢献も果している。 瀬古さんにはその頃、ある考えがあった。以前からライフワークとして続けている薬草の発見やブラジルには無い熱帯果樹の買い付けなどだった。85年4月にコショウの産地であるインドネシア、マレーシアなど東南アジアの熱帯地方に在庫調査の名目で足を運び、インドネシアを訪問した際、ある農家の庭先にぶら下がっている熱帯果樹を発見した。それがランブータンだった。以前から、ランブータンのことを調べ上げ、成育条件として雨の多いアマゾンの熱帯の土地にも合うことが分かっていたという。 「ポケットや靴の先など、ランブータンの種を持てるだけ持って、ベレンに帰ってきた」瀬古さん。その成果が文字通り実り、現在、所有しているマリツーバの農園には、ランブータンをはじめ、同じインドネシア産のマンゴスチンや「果物の王様」と言われるドリアンなど、各種生産物が所狭しと植えられている。また、新しいところでは、「ドラゴンフルーツ」の異名を取る「ピッタイヤ」と呼ばれるサボテンから成る果実の栽培も行っている。 94年4月下旬、商社のベレン支局が閉鎖されたことを受けて瀬古さんは、25年間にわたるサラリーマン生活に終止符を打った。商社時代から並行して続けてきた熱帯果樹生産、薬草生産を軌道に乗せ、2004年8月からはラン栽培にも取り組み始めた。 「『俺は明日からは何もせんぞ』と果樹園は息子に任せて、隠居宣言をした」と豪快に笑う瀬古さんだが、ラン栽培という新しいものに挑戦する前向きな気持ちは昔も今も変わらない。 商社が閉鎖された際、「男として生まれたからには、一度は一旗挙げたい」と立ち上げたのが、現在の熱帯果樹や薬草などの自然生産品を輸出販売する会社だ。 「私にとって人生最後の宿題となるのが、このラン栽培ですよ」と、ラボラトリオで新種のランの研究状況を見せてくれた瀬古さん。親戚にラン栽培を指導するとともに、観葉植物の鉢植え栽培も行うなど、今なお精力的な活動を続けている。(2012年10月号掲載)
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