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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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小川和己さん (2023/04/17)
2012年11月号小川和己さん.jpg
 ブラジル南部に位置するサンタ・カタリーナ州フレイ・ロジェリオ市管内のラーモス移住地に住み、原爆被爆者だった小川和己(おがわ・かずみ)さん。残念ながら、今年(2012年)9月4日午後10時半ごろ、同移住地内の自宅で友人たちと歓談していた後に間もなく亡くなった。1929年5月14日生まれ。享年83歳。長崎県長崎市出身。今回はお世話になった小川さんへの追悼の意を込めて、同氏の人生を振り返りたい。
 小川さんは1945年8月9日、長崎市内で原爆を体験。16歳で学徒動員により、長崎市内の工場で軍事教練や兵器製造の毎日を送っていた。
 原爆が投下された同日も朝から工場へ向かったが、連絡船に乗り遅れたことが人生を変えた。思いがけず教練をさぼることになり、仕方なく友達の家近くにある山で弁当を食べていた時だった。突然閃光が光ったかと思うと「ドーン」という地響きが鳴り、とっさに身を伏せた。周りを見ても爆弾の跡はなく、不審に思って山から長崎市方向を見下ろすと、辺り一面が火の海に包まれていた。
 当時は訳が分からず、様子をうかがうために市街地に向かったが、「焼けただれた人たちが歩いてくる姿を見て恐ろしくなり、家に戻った」という。後日、原爆が投下されたことをニュースで知らされた。爆心地から約8キロの地点にいた小川さんは、山の谷間にいたことが幸いした。
 終戦から10年以上がたち、復興の兆しを見せ始めた56年ごろ、小川さんは「これからの日本の農業は、世界の農業を見ることが必要だ」とし、日本政府が行っていた海外派遣制度で渡米。3年間、アメリカで農業研修生として野菜や米作りに従事した。
 しかし、帰国しても平地面積の少ない日本では大規模農業はできないと悩んだ末、60年に31歳でブラジル行きを決意。長崎市の製氷工場で働いていた満里子(まりこ)夫人と結婚。翌61年、弟、叔母を含めた構成家族を作り、「ぶらじる丸」で海を渡った。
 到着後はブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州サンタ・マリア市で3年間トマト作りを行い、64年には海外移住振興株式会社現地法人JAMICが造成したラーモス移住地の第1陣として入植。換金作物のトマト栽培をはじめ、輸入作物だったネクタリーナ(油桃)を同地に根付かせ、その後試行錯誤を繰り返しながら、リンゴ、日本梨、シイタケなどを定着させた。
 同じ原爆被爆者で、一緒にブラジルに来た弟や叔母ががんで苦しみながら先に亡くなった姿を見ていた小川さん。「原爆で死んだ学校の仲間たちが『俺もブラジルに行きたいよ』と夢の中に出てくる。何とかして死んだ友達たちの供養をしたいと思っていた」という。
 そうした思いが募り、「戦争のない平和な世界を」願って長崎県国際親善協会などに働きかけ、98年に「平和の鐘」の寄贈が実現した。それをきっかけに自身の耕地内の高台に「平和の鐘」モニュメントを建立。2002年に完成させた「平和の鐘公園」事業の一環として、10年には同公園内に地元をはじめブラジルと日本の関係者の協力を得て「平和資料館」を落成、長年の夢を実現させた。
 その間、平和運動及び教育活動を推進。長崎県から送られた原爆写真パネルによる写真展も開催するなど、「被爆者と子孫の会」代表として核兵器の廃絶を訴えてきた。
 「戦後の日本のドン底の時代を知ってブラジルに移住してきた。常に何かをやらなければという気持ちが強く、日本よりチャンスの多いブラジルを選んだ。しかし、祖国は日本だという気持ちは常にあり、日本の出来事には関心が強いですよ」と語っていた小川さん。移住地で日本の作物を栽培しながら、日本文化を移住地をはじめブラジルに伝えようとしていた。
 「満足そうに話をし、苦しむことなく去っていきました」と満里子夫人が語るように小川さんは、最期に移住地の仲間や後輩たちに自身の思いを語りながら、人生の幕を静かに閉じた。(2012年11月号掲載)   


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松本浩治 :  
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