日高徳一さん (2023/04/24)
「自分たちの思いでやったことで、臣道連盟(しんどうれんめい)から命令を受けたわけではない」―。1946年6月2日、聖市サウーデ区の自宅に同志のメンバーたちと押しかけ、脇山甚作(わきやま・じんさく)退役陸軍大佐を射殺した日高徳一(ひだか・とくいち)さん(86、宮崎、聖州マリリア市在住)は、そう断言する。同襲撃事件は長い間、日系社会では臣道連盟が組織して実行したと思われてきたが、実行犯の一人だった日高さんは冒頭の言葉で否定している。 日高さんは1932年、6歳の時に家族とともに「もんてびでお丸」で渡伯。聖州モジアナ線に入植し、家族は2年の契約移民の約束を果たした後、聖州バウルー管内に転住。同地で綿作りに携わった。 18歳ごろに単身、ツッパンに出た日高さんは地元のホテルに奉公して働き、後に一家を呼び寄せた。当時近隣のマリリアには「勝ち組」の興道社(こうどうしゃ)があり、知人のつてで臣道連盟の青年部に所属した。 終戦をツッパンで迎えた日高さんは、情報が錯綜する中、戦勝ニュースと共に日本の皇室を誹謗(ひぼう)するうわさを伝え聞いていた。その中で同市内のコチア産業組合支部から配布された「終戦事情伝達趣意書」を見たことが、46年4月1日の古谷重綱(ふるや・しげつな)アルゼンチン大使殺害未遂事件及び同6月2日の脇山大佐射殺事件を引き起こすきっかけとなった。 日本の外務省は45年10月、スイスを経由して英文で打電した「終戦の詔勅」をブラジル日系社会に送った。その理由は日本の「敗戦」の事実を伝え、混乱を鎮めることにあった。しかし、「終戦の詔勅」を英語で伝えるはずがないとする「勝ち組」派が騒ぎ、当時の日系社会の指導者だった7人の署名によって作成された「終戦事情伝達趣意書」が結局は、敗戦と認めたくない日高さんたちの思いを逆なでした。 「7人(の指導者たち)を消さなければ」との思いが日増しにエスカレートした。46年4月1日未明、聖市アクリマソン区に住んでいた古谷アルゼンチン大使を襲撃しようとしたが、その家族に事前に察知され失敗に終わった。 2カ月後の6月2日、今度は脇山甚作退役陸軍大佐に自決勧告書を突き付けるために、メンバー5人でボスケ・ダ・サウーデ区の脇山氏宅へ行った。メンバーたちは決行後は警察に自首することを打ち合わせて、脇山氏の自宅の扉を正面からたたいた。その時、脇山氏と一緒に暮らしていた孫たちが客と思って扉を開け、応接間へと通された。脇山氏から「お掛けなさい」と勧められたがメンバーたちは立ったまま、自決勧告書と短刀を差し出し、帝国軍人として自決することを促した。 しかし、脇山氏は「私はもう老年であって、そんな気力はない」と否定したことから、「それでは、ごめん」とメンバーの北村シンペイ氏と日高さんが脇山氏に発砲。まだ息があった脇山氏を見た日高さんは「苦しませてはいけない」と思い、2発目を発射。結果的にそのことで脇山氏を死に至らしめた。 日高さんは脇山氏について「立派な帝国軍人で、最後まで立派な人だった」と振り返る。 決行後メンバーは、タクシーを拾ってセントロ区の中央警察に自首した。カーザ・デ・デテンソン(未決囚留置所)を経て数カ所の警察を回され、DOPS(社会政治保安部)の取り調べを受けた日高さんたちは、執拗(しつよう)に「誰の命令を受けたのか」と尋問された。DOPSは臣道連盟の指示によるものとの供述を取りたかったようだが、日高さんは「自分たちが単独でやったこと」と主張し続けた。 日高さんたちは凶悪犯罪者たちとともにアンシェッタ島に護送され、2年7カ月にわたって島の生活を余儀なくされた。島から戻った日高さんは約30年の刑を言い渡され、カランジルー刑務所をはじめ各地の刑務所を転送後、模範囚として減刑。58年、32歳の時に釈放された。 実家に戻った日高さんは、親の勧めで2世のヒサ子夫人と結婚し、ポンペイアで自転車屋を営むことに。その後68年にマリリアに転住して自転車屋を続け、現在も使用人に任せながら店番をする日々を続けている。 2008年の移民100周年には、同じ志を持っていた故蒸野(むしの)太郎氏、故山下博美(ひろみ)氏とともに聖市記念式典で皇太子の姿を拝んだ日高さん。リベルダーデ区の文協ビル訪問の際には、高齢者席に交ぜてもらい、皇太子から「ご苦労様」と声を掛けられるなど間近に接することができた。「幸福というか、何とも言えない気持ちだった」と皇太子との面会について率直な心情を話す日高さんは、柔和な表情を見せた。(2012年12月号掲載)
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