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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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柴田稔さん (2023/04/30)
2013年1月号柴田稔さん.jpg
 サンパウロ市を拠点として、ブラジル各地で日本間などの和風建築や家具類を制作する柴田稔(しばた・みのる)さん(北海道出身、60)。少年時代に家族でブラジルに渡り、20歳で日本に帰国。41歳で再び渡伯し、家大工(やだいく)としての丁寧な仕事ぶりが、顧客との信頼関係を築いている。「日本空間の良さを知ってほしい」と柴田さんの地道な活動が続く。
 1960年、家族とともに8歳で渡伯した柴田さんは、青少年時代をサンパウロ市リベルダーデ区で過ごし、文協(ブラジル日本文化福祉協会)前にあるカンポ・サーレス小学校に通った経験も持つ。
 北海道札幌市で療養していた父親・清作(せいさく)さん(故人)の身体的な都合により、20歳で帰国。清作さんが行っていた大工仕事を一緒に手伝い、札幌市を中心に職人としての腕を磨いた。
 「当時はカラーテレビも珍しい時代。ブラジルにいた時と違って、働けばそれらの製品を買えることが嬉しかった」と帰国した当初のことを振り返る。
 しかし、ブラジルで青少年年時代を過ごしたため、札幌では顔見知りの友人がいなかった。ブラジルからの留学生や研修生たちが札幌で勉強していることを知り、彼らとの付き合いが始まった。
 「特に冬は雪で仕事にならないから、ほぼ毎日研修生たちと会っていました」
 その中の一人が、後に夫人となった悦子テレーザさん(2世)。札幌医学大学の看護士として研修していた。結婚後も札幌で暮らしていたが、93年、悦子さんの「ブラジルに戻りたい」との言葉で再び、地球の反対側へ。柴田さんが41歳の時だった。
 90年の入管法改正の後、ブラジルからの就労者が数多く日本へと向っていた時期。「友達からは『何で今頃ブラジルに戻るのか』と、よく言われました」と柴田さんは苦笑する。
 再渡伯した初期は想像した以上に仕事がなく、95年には約4か月間、日本に出稼ぎにも行った。そうした頃に悦子夫人の身体の調子が悪くなり始め、2000年に亡くなった。成長期の子供たちを抱え、途方に暮れている暇もなく、自らの仕事に打ち込む日々が続いた。
 これまでに柴田さんは、日本レストランの日本間造りをはじめ、98年の移民90周年の時には日本館の瓦の葺(ふ)き替え作業を無償で行った中島工務店(岐阜県)の手伝いをボランティアで実施。04年には、聖州インダイツーバ在住の日本人から依頼され、初めて個人宅での日本間を完成させた。そのほか、パラー州ベレン市のモーテルからの依頼で日本様式の客間を造るなど、地道ながらも丁寧で確実な仕事ぶりが顧客との信頼関係を結んでいる。
 「日本では当たり前のことですが、手抜きの仕事をしないことが基本です。メンテナンス(管理・整備)作業に重点を置くなど、お客さんの立場に立って造ることをモットーにしています」と柴田さん。「日本間の空間を楽しんでもらえる。そういう人たちと巡り会えたことが嬉しい」とも。
 日本間の魅力について柴田さんは「独特の優しさがある」という。
 「例えば、畳は乾燥している時は水分を出し、湿気が多い時は水分を取り込むなどの働きがあり、障子は直射日光を遮(さえぎ)り、光を柔らかくする作用があります。ブラジルでは土の上に直接、基礎を造りますが、日本建築では必ず一段上げて基礎工事を行います。そうすることで湿気を防ぐことができます。住宅も人間と同じように呼吸するのです」
 「今後の目標としては本格的な木造建築をブラジルで造りたいですね」と柴田さんは、前向きな意気込みを見せている。(2013年1月号掲載) 


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