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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
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古谷綱雄さん (2023/05/07)
2013年2月号古谷綱雄さん.jpg
 第2次世界大戦前、アルゼンチン公使を勤めた後にブラジルに移住し、戦後まもなく「勝ち組」の襲撃未遂事件に遭遇しながらも日本語普及活動などにも尽力した故・古谷重綱(ふるや・しげつな)氏。その甥(おい)に当たる古谷綱雄(つなお)さん(96、愛媛県出身)は戦後、重綱氏の呼び寄せにより家族でブラジルに渡り、サンパウロ州ジュキアで農場経営に勤(いそ)しんだ。現在、サンパウロ州サン・カルロス市に住み、高齢ながらも充実した毎日を過ごしている。綱雄さんに、伯父への思いや当時の様子など話を聞いた。
 資料などによると古谷重綱氏は、日本の「国民新聞」の記者を経て、米国ミシガン大学(法科)に留学した。帰国後の1902年に外交官試験に合格し、イギリス、カナダ、米国、メキシコなどの大使館で勤務。その後、26年にアルゼンチン公使となった。
 アルゼンチンからの帰国途中、特別許可を得てブラジルを3週間かけて視察。かねてから、米国の日本移民排斥を苦慮し、ブラジルの日本移民に関心を抱いていた重綱氏は帰国後、栄転を断り、自らブラジル日本移民となって海を渡った。29年12月のことだった。
 ブラジルでは、サンパウロ州ジュキアに入植。「セードロ農園」などを経営し、主にバナナ生産とユーカリ植樹を行った。また、サンパウロ大学で日本文化講座を担当したほか、旧日本病院(現・サンタクルス病院)の理事長なども歴任している。
 戦後間もなくの46年4月1日には、サンパウロ市アクリマソン区の自宅で「勝ち組」派による襲撃を受け、命拾いしたことは日系社会でも有名な話だ。
 綱雄さんは父親からかねがね、実弟である重綱氏の噂話を聞かされ、戦後になってからブラジル側と手紙のやりとりをしていたという。
 戦後、東京都にある農林省の農事試験場に勤めていた綱雄さんは、父親の死去とともに郷里の愛媛県に戻っていた。戦後の混乱が続き、朝鮮戦争などで食糧不足も深刻になる中、重綱氏から来た手紙が綱雄さんの人生を変えたのだった。
 その頃、重綱氏はジュキアにあった農場を次々に売り出し、「お前(綱雄さん)がブラジルに来なければ、最後のセードロ農場も売ろうと思っている」との思いを伯父から知らされ、「狭い日本にいるよりも海外に行ってみよう」とブラジル行きを決心したという。
 重綱氏からの「呼び寄せ」により、綱雄さんは夫人と3人の子供とともに54年、「さんとす丸」で渡伯。ジュキアの「セードロ農場」の経営管理を任され、99年までの45年間にわたって同地に住み続けた。渡伯してからの1年間は、重綱夫妻とともに行動を共にしている。
 その間、綱雄さんは同農場経営の傍ら、コチア産業組合聖南西単協理事長や地元ジュキア文協会長なども歴任した経験を持つ。
 99年には、大学教授だった長男が住むサン・カルロス市に引っ越した。現在も同地に住み、数年前までは用事があると単身、サンパウロ市に足を運ぶなど健脚ぶりを見せていた綱雄さん。生前の重綱氏について、「外交官だっただけに英語、スペイン語など言葉をたくさん知っていました。セードロ農場で1年一緒に住んでお世話になりましたが、威厳があり、あまりこちらからずけずけと話をできない雰囲気を持っていました」と振り返る。
 戦後間もなくの「勝ち組」による襲撃未遂事件について綱雄さんは、重綱夫人から後になって伝え聞いたことはあるが、重綱氏本人から直接話されることはなかったという。
 俳句をたしなみ、自宅付近などを散歩する生活を行っているという綱雄さんは、伯父の威厳を胸に現在も充実した日々を過ごしている。(2013年2月号掲載) 


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松本浩治 :  
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