松本富美枝さん (2023/05/13)
リオデジャネイロ州チングアに住む松本富美枝(ふみえ)さん(83、鳥取県出身)は、日系十数家族が住む同地で、残り少ない日本人女性のうちの一人だ。 1930年1月、生まれて間もなく家族に連れられてブラジルに渡った富美枝さんは、サンパウロ州ゴヤンベーの「シエンシア」と呼ばれる耕地に入った。 鳥取県米子(よなご)市で養蚕業を営んでいた松本家族は、入植地に桑の木が植わっていたことを見て、ブラジルという異国の地でも養蚕ができることを大いに喜んだという。 数年して同じゴヤンベーのサビドリア耕地に移転。繭(まゆ)の生産・販売が専門だった松本家族は土地を購入して増やし、さらに桑の木を植えた。 富美枝さんは、サビドリア耕地時代にはグルッポ(小学校)で学び、日本語学校にも通ったが、「その頃は戦争で日本語をしゃべったら、刑務所に入れられる時代だったからね」と口数も少なく、少女時代の思い出はあまり良いものではなかったようだ。 そうした生活が続き、「ナモラ(恋愛)している暇も無かった」(富美枝さん)が、親の勧めにより従兄妹にあたる松本和美さん(2005年に75歳で死去)と22歳で結婚。52年頃、リオ州のピラネーマに移り、トマト、キャベツなどの野菜生産に転換した。 「消毒作業も今はマキナ(機械)でやるようになったけれど、その頃は皆、同じように背中に担いでね」 富美枝さんは子育ての合間に農作業も率先して手伝い、夫を支えた。 64年には親戚のつてで同州マカエに移ったが、雨が降ると土地が浸水することに悩まされ、間もなく現在のチングアへ。 7人の子宝に恵まれ、それぞれが成長する中で、子供たちが中学生になった頃にはイタグァイの街に家を借りて行き来しながら結局は全員、大学を卒業させた。 夫の和美さんは世話好きな上に、周りからは「馬鹿丁寧」と呼ばれるほど仕事熱心で、20年ほど前にはチングア日本人会の会長も務めた。農産関連では、ゴヤバを中心に苗づくりにも励んだ結果、優良農業者としてブラジル政府から5年連続で表彰を受けている。 「毎年表彰されるので、(和美さんは)『もう(賞状は)いらん。誰か他の人に渡してやってくれ』と言ってたね」と富美枝さんは、夫の偉業を淡々と振り返る。 親の背中を見て育った子供たちは現在、長男の幸夫さん(56)が農業を継ぎ、チングア日本人会長も経験するなど、親子二代で地域への責任を果たし貢献してきた。 チングアでは、日本に出稼ぎに行っていた次世代層が帰伯して農作業に従事し、後継者として村を支えている。 富美枝さんは、農作業の手伝いの合間に「皆と一緒に作るのが楽しい」と味噌づくりなど、同地の婦人部とともに加工品も生産。約10年前までは、ゴヤバの箱詰めなどを続け家族を助けてきた。 2004年には、夫の和美さんとともに74年ぶりに日本に一時帰国。故郷の土を踏んだが、当時の記憶はもちろん無く、未知の世界に映った。 「今は暢気(のんき)に遊んでおります」と充実した表情を見せる富美枝さん。「やっぱり、今いるチングアが一番良いよね」と顔をほころばせた。(2013年3月号掲載)
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