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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
田辺俊介さん [画像を表示]

田辺俊介さん (2023/05/23)
2013年4月号田辺俊介氏(グァポレ移民).jpg
 「素晴らしい日本文化を伝えたい」―。こう語るのは、ロンドニア州ポルト・ベーリョ市に住む田辺俊介(たなべ・しゅんすけ)さん(65、鹿児島県出身)だ。1954年7月、6歳だった田辺さんは家族とともに、当時は連邦直轄州だったグァポレ移住地に入植した。少年時代、周りのブラジル人に日本人であるがゆえに差別された悔しさをバネに、仕事が落ち着いた1990年代ごろから日本語教師として活動。冒頭の言葉をモットーに、研鑚を積む日々を過ごしている。
 父母、叔父、妹と5人家族により「あめりか丸」で海を渡り、54年7月22日にグァポレ移住地(現:トレゼ・デ・セッテンブロ)に入植した田辺さん。当時の記憶に残っているのは、「南国に行くので暑いだろうと布団も持って行かなかったのに、『フレアージェン』という南からの冷たい大風が吹き、寒さに震えたこと」だった。
 移住地では契約農として主にゴム栽培を行った。しかし、収入にこぎつけるまでは時間がかかり、土壌の悪さなどもあり、第1回の29家族が入植しただけで、その後の入植は断念せざるを得ない状況だったという。
 少年時代から農作業を朝から晩まで手伝い、仕事の合間には青年会活動にも積極的に参加した。その間、柑橘類の生産のほかに家畜を飼い、「野菜作りの堆肥用として始めた」養鶏が当たり、卵や鶏肉がよく売れたそうだ。
 72年、同船者で同じ青年会仲間の恵子さん(62、福島県出身、旧姓・須藤)と結婚。3年ほどして農業に見切りを付け、「商売をやるため」にポルト・ベーリョの町に出た。
 不動産業をはじめ、スーパーマーケットの開店とともに冷蔵品なども扱い、80年代には大手食肉業社「サジア」の代理人としても働いた。また、日ポ両語ができたので、日本のテレビ局取材のコーディネイターを引き受けたりもした。日本の某公共放送局がアマゾンの「ヤマ焼き」の映像を撮りたいとブラジルにやってきたことがあったが、その時期ではなかったため困ったテレビ局関係者が「本物でなくてもいいから」と現地側に指示し、「やらせ」でヤマ焼きのような場面を撮影したこともあったという。当時の田辺さんの睡眠時間はわずかに2時間ほどで、そうした生活を約20年にわたって続けてきた。
 そのころから日本語教師を志した田辺さん。その原動力になったのは、グァポレ移住地時代に周辺のブラジル人に「戦争に負けた日本人」として「日本文化をバカにされたこと」だった。「子供ながらに悔しくて、『日本の文化はそんなものじゃない。もっと素晴らしい文化を伝えられないものか」と常に考えてきた。
 2001年にはJICA(現:国際協力機構)の助成を受け、地元日系団体「ニッケイ・クラブ」内に日本語学校を設立。JICA派遣青年ボランティアの協力もあり、一時期は約60人の生徒が学習していた。しかし、青年ボランティアの帰国などで生徒数も減り、せっかくの日本語学校も一時的に閉鎖。仕方なく田辺さんは自ら「光(ひかり)日本語学校」を設立した。
 その数年後には、再び「ニッケイ・クラブ」の日本語学校が再開。現在、田辺さんの教え子である非日系人3人が日本語教師として活動し、「光日本語学校」と合わせて10~60歳の生徒約80人が日本語を学んでいる。生徒のほとんどは非日系で、教育の一環として太鼓、よさこいソーラン、盆踊りなども行っているという。
 田辺さんは同地の日本語学校について、「学校というよりもレクレーションの場という感じ。日本語を教えたいという思いももちろんあるが、いろんな日本文化を取り入れてブラジルの中で親日家を育てることが自分の願い」と話す。
 移住地時代に蔑(さげす)まれた日本文化が現在、田辺さんたちの活動により、同地で着実にブラジル人たちの心をとらえている。(2013年4月号掲載) 


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松本浩治 :  
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