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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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加藤イツ子さん (2023/05/29)
2013年5月号加藤イツ子さん(吟剣詩舞).JPG
 サンパウロ市ビラ・アントニエッタ区に在住する加藤イツ子さん(85、鹿児島県出身)。7歳から17歳までの多感な時をサンパウロ州チエテ移住地(現・ペレイラ・バレット市)で暮らした経験を持つ。
 1935年、加藤さんがチエテ移住地に入植した当時、コーヒー栽培から綿作へと切り替えられた直後で、コーヒーの木を燃やす光景があちらこちらで見られたという。移住地の中心地ウニオン地区に入った加藤さん家族だが、土地の疲弊が激しくなるとともにマラリア、アメーバ赤痢などの病気も蔓延しだした。
 3年後に奥地のラゼアードに移ったが、間もなく母親が亡くなり、父親も病気で畑仕事ができなくなった。原始林が生い茂るラゼアードでは綿栽培に必要な日光が思うように当たらず、借金もかさむなど長女だった加藤さんにさらに追い打ちをかけた。
 「ブラジルには『道にお金が落ちている』ほど儲かると聞いて、妹たちと本気で信じていました。それがチエテ移住地に来てみると、全く条件違いもいいところ。ただ、私たちの中にも日本政府の宣伝に乗って、ブラジルで一旗上げて帰るという欲があったのも確かですね」
 農業ができないと悟った加藤さんはその後、妹たちとともにブラジル拓殖組合が経営していた製糸工場で働いた。第2次世界大戦中、日本の敗戦色が濃くなる中、皮肉にもブラジルからアメリカに輸出していた生糸の景気が良く、加藤さんたちの生活も少しは潤った。しかし、終戦により工場は閉鎖。再び苦しい状況が続いた。
 チエテ移住地での生活に見切りを付けた加藤さん家族は、サンパウロ州サンカルロス市に移住。トマト栽培などを行ったが暮らし向きは良くはならない。意を決した加藤さんは単身サンパウロ市に出て、美容師として働くこと7年。独立して自分の店を持ち、家族を呼び寄せた。 
 その間に結婚もした加藤さんだが、夫が「勝ち組」だったことで苦労も絶えなかった。警察から家宅捜査をされた上、最愛の夫は牢獄に8年間入れられた。
 「毎日、デマが流れましたよ。単に勝った負けたの抗争だけではなく、同じ日本の同胞でありながら警察に密告し、裏でお金をもらっている人もいました。ブラジル上層部とつながりのあった人は、ヤミで土地を売ったりと混乱を利用して儲けていました。その被害で自殺者も出るなど狂気の時代でしたね」
 祖父が、西郷隆盛の家来、父親が海軍の軍人だった影響もあり、加藤さん自身、日本が戦争に負けるとは思ってもみなかったという。
 「父は『日本が負けるはずがない。神がついている。もし、負けたら生きている価値はない』とよく言っていました。今から考えれば技術力、戦闘力でとてもアメリカには対抗できないとすぐに分かりますが、当時、そんなことは考えもしませんでした」
 当時のチエテ移住地について加藤さんは「昔のことを考えると、日本人移民は身体こそ小さいけれど、よく頑張ってきたと思います。チエテの街は日本人無くしては成り立たなかったでしょう」
 現在ではブラ拓の製糸工場があった場所もダム建設に伴う増水で水没し、見ることはできない。しかし、加藤さんの心の中には当時の移住地の生活が深く刻まれている。
 30年前から始めたという吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)を、今でも続けている加藤さん。祥こう流(しょうこうりゅう)の流れを汲む「祥悦会(しょうえつかい)」教師として、毎週日曜(午前11時~午後0時半)にはサンパウロ市リベルダーデ区の福島県人会館で門下生14人(日系と非日系が半数ずつ)を相手に稽古を行っている。
 「日本文化を無くさないように活動してきて、3人の(吟剣詩舞)教師が育ってきました。詩舞は倒れるまでやりたいと思います」と加藤さんは、今も熱い思いを持ち続けている。(2013年5月号掲載) 


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松本浩治 :  
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