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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
三好英雄さん・信子さん夫妻 [画像を表示]

三好英雄さん・信子さん夫妻 (2023/06/12)
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 サンパウロ州ジャカレイ市のジャミック移住地に住む三好英雄(ひでお)さん(78)、信子(のぶこ)さん(72)夫妻。ともに岡山県出身で、子供たちはそれぞれに独立したりして別居しており、現在は同地に2人だけで暮している。
 コチア青年制度の2次1回生として、1959年3月2日に「あめりか丸」で神戸を出港した英雄さんは、実は55年の初めて(1次1回)のコチア青年募集に申し込んだ経験がある。しかし、家族から猛反対を受け、4年越しの思いを実現させたのだった。
 サンパウロ市カーザ・グランデの山本栄さんの農地に配耕され、3年間を同地で過ごしたが、61年にはブラジル行きを反対していた父母たちが家族でジャカレイに移住。英雄さんもパトロンの許可を得て、ジャカレイに移転した。
 翌62年3月には、花嫁移民の形で当時23歳だった信子夫人が渡伯。英雄さんは父親とともにサントス港に迎えに行った。信子さんの伯父と英雄さんの両親が知り合いだったことから縁談がまとまったが、「本当は伯父の家族と一緒にグァタパラ移住地に行くつもりだった」そうだ。
 高校3年生の時に新聞部に所属していた信子さんは、ブラジルで成功して一時帰国していた戦前移民の話を聞く機会を持ち、海外に大きな興味を抱いた。伯父がグァタパラに行くことを知らされ、自分も構成家族としてブラジルに行くことを決心していた。
 結局、親の決断で手紙のやりとりだけで英雄さんとブラジルで結婚することになり、グァタパラではなくジャカレイに行くことになった。65年11月、三好夫妻は独立。新居を現在のジャミック移住地に移して以来、同地での生活を50年近くにわたって続けている。
 「最初のイメージでは、ブラジルはもっと大陸的な場所かと思っていましたが、岡山の実家よりももっと田舎でした。道の両脇は大きな草で覆われ、ジープで連れていってもらわないと町との行き来ができませんでした」(信子さん)
 米や果樹生産とともに、コチア産業組合から融資と技術指導を受けて養鶏にも取り組んだが、70年代後半には鶏に病気が入ったと判断された。
 「20日過ぎの小さなヒヨコを殺さざるを得なかったのは悲しかったですが、組合の見込み違いで病気ではなかったことが後に分かった時は泣きの涙で、ずいぶん苦い思いもしました。コチア組合員として、組合をあまりにも頼り過ぎました」と三好夫妻は苦しかった時代を振り返る。
 移住地には73年まで電気が入らず、ガス燈での倹(つま)しい生活が続いたが、新年会、運動会、忘年会をはじめ、シネマ屋の訪問では、カミヨン(トラック)の荷台の上に板を渡して観覧席にするなど、移住地内の催しを楽しんだ思い出もある。
 3男2女の5人の子宝に恵まれ、現在、ロケット工学関係、マッサージ師、造園業など子供たちも各分野でそれぞれに活躍している。信子さんは80年代から書道を始めたり、コチア産業組合解散後、95年に創立されたADESC(農協婦人部連合会)の活動にも参加してきた。また、三好夫妻は農業生産活動の合間に、竹の加工や竹炭作りにも携わるようになった。
 そうした中、英雄さんが2007年ごろに脊髄(せきずい)を痛めて体を悪くし、信子さんは夫の看病を行ってきた。その間、子供たちの献身的な協力を得て、英雄さんはここ数年で次第に体力を回復。サンパウロ市リベルダーデ区の宮城県人会で毎月2回程開かれている「青葉祭り」のADESCのブースで、病後のリハビリを兼ねて自ら作った竹炭石けんを販売してもらうなどしているという。
 信子さんは現在も書道の活動を続けており、教師の免許を取得。毎月3回はアクリマソン区の茨城県人会館に顔を出すほか、地元ジャカレイの日本語学校の生徒に書道を教えたりしている。
 「今は夫の体も大分良くなったし、趣味で庭木を阿弥陀(あみだ)様のように作ったりとアポゼンタ(年金受給者)の生活を楽しんでいます」と信子さん。夫婦2人でのんびりした暮しを送っている。(2013年7月号掲載)


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松本浩治 :  
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