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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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土田加津司さん (2023/06/18)
2013年8月号土田加津司さん.JPG
 サンパウロ市から東に約80キロ離れたグァラレマ市内にある桜高森(さくら・たかもり)植民地。1960年の入植当初は「桜植民地」と呼ばれ、最初に岐阜県人たちが入植したことから「岐阜県村」として親しまれた。現在、他府県や他地域からの入植者も含めて、約50家族が在住している。60年代中ばの最盛期に23家族だった岐阜県人は現在、4家族のみ。同植民地の歴史と現状などを第1次入植者の土田加津司(つちだ・かつし)さん(66)に話を聞いた。
 同植民地は50年代後半にブラジルに住んでいた岐阜県人、故・足立小平治(こへいじ)氏がブラジル人農場主から購入した土地を「岐阜県村(桜植民地)」として開設することを岐阜県側に提示。59年9月に日本で発生し、犠牲者約5000人の被害をもたらした「伊勢湾台風」の影響もあり、岐阜県では入植希望者を募ることになった。
 土田さんの父親・桂一(けいいち)さん(故人)は、自身の母親の親戚が戦前移民としてブラジルに渡り、サンパウロ州アンドラジーナに住んでいたことから、伊勢湾台風の影響に関係なくブラジルに来ることを思い続けていた。そうしたところで「岐阜県村」の話を聞き、海を渡ることを決心。植民地の土地代の半分を日本で払い、残りはブラジルに来てから個人で融資を受けて支払った。
 当時12歳だった土田さんは、父親・桂一さん、母親・おぬいさん(ともに故人)と姉、弟、妹の6人家族で60年3月2日神戸発の「あるぜんちな丸」に乗船。太平洋回りでサントス港に4月9日に到着し、同11日に移住地に入植したという。同じ岐阜県入植者と2家族のみだったが、アフリカ回りで海を渡った第2次入植者7家族がその2日後に到着し、計9家族で初期の移住地を開拓した。
 桜植民地に入植した当初は入植者たちの住む家がまだ建てられておらず、第1次、第2次の9家族は、植民地入り口付近にあるブラジル人のファゼンダ(農場)の空き家を借りて住み、家長たちが「あみだくじ」による区画決めの後、各家族がそれぞれ自分たちの家を建てるために徒歩で通った。
 土田さん家族は植民地入り口から最も遠い区画に当たり、約4キロある道のりを毎日徒歩で通い、土地管理者の足立氏が準備したユーカリ材等を使用して、家造りに励んだそうだ。
 ブラジルに渡ることになった当初「外国に行けることがうれしかった」という土田さんだが、植民地では6キロ離れたブラジル学校に半年程通った後、翌61年から日本海外移住振興株式会社の助成金で造った学校に半日通った。しかし、「父親が農作業などの仕事をしているのを見て気が引けて」(土田さん)17歳の時に学校を辞めて父親と一緒に働き、家計を支えた。
 岐阜県では米作りを行っていた土田家族は、桜植民地で当初、キュウリ、エンドウ豆、スイカや桃などの作物を作り、モジ・ダス・クルーゼス産業組合に出荷していた。
 61年ごろには同組合が養鶏を奨励し、移住者の多くが300~500羽の養鶏を開始。「そのころは500羽でも大きく、肥料用の鶏糞を取ることが目的だったようでした」と土田さんは当時を振り返る。
 69年には同地域に電気を引くことや子供たちの学校を共有することなどを目的に、隣接する高森植民地と正式に合併して「桜高森植民」に改名。岐阜県人以外にも他の都道府県人も外部から入植し、北海道の炭鉱離職者や韓国移民も合併前後に入植したという。
 77年ごろには土田さんの弟がバラを植え始め、花卉(かき)生産に力を入れるようになった。同植民地は現在、カトレアなどのラン栽培が中心となっているが、当初からバラ作りを継続しているのは土田家のみ。次男の健司さん(29、2世)が販売面を担当している。
 土田家では、バラを中心にラン栽培も始めて今年で3年目。生産された花卉産品は主にサンパウロのCEAGESP(サンパウロ州食糧配給センター)に出荷されるほか、サントス方面にも直販している状態だ。
 土田さんは、「ここは他の植民地と違って足立さんが地券をすぐに渡してくれたことが良かった」と語り、陽に焼けた顔に笑顔を浮かべていた。(2013年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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