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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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南満さん (2023/06/25)
2013年9月号南満さん.JPG
 ピラール・ド・スール日伯文化体育協会の第61代会長として、今年(2013年)6月9日に同地で開催された創立60周年記念式典を指揮した南満(みなみ・みつる)さん(75、福岡)は、東京農大拓殖学科を卒業後、農業実習生としてブラジルに渡って来た。
 実家が造園業を行っていたという南家では、長男が家業を引き継いでいた。1950年代当時の福岡県は炭鉱のストが多く、三男の南さんは高校時代から「海外に出たい」との希望を持っていた。
 高校卒業後、「地方組織が強かった」という農大に入学した南さんは在学中に応援団長を務め、「(東京都の)新宿や渋谷でもどこでも(名物の)『大根踊り』を踊りましたよ」と笑う。当時の農大では3年間で単位を全部取り、4年は農業実習が義務付けられていた。60年、22歳の時にオランダ船「テゲルベルグ号」に約20人の同級生とともに乗船し、海を渡った。
 南さんが実習先として入ったのは、サンパウロ市近郊ピッコ・デ・ジャラグア山麓の起伏の激しい土地に住んでいた同じ福岡県人の国武(くにたけ)というエメボイ実習生出身の日本人の農地だった。
 「厳しい人で褒められたことはなかったですが、理解があって本当に良くしてもらいました」と南さん。国武氏は既に他界しているものの、国武夫人とは現在も付き合いが続いているという。
 実習中は月1回のレポートを東京農大に提出し、年間の集大成である論文も担当教師に提出して卒業が認められたが、南さんは「当時はカマラーダ(日雇い労働者)のような生活で、とても日本に戻れるような状態じゃなかった」とし、卒業式にも出席せずにそのまま国武氏の下で10年間働いた。
 「ほかの実習生からは『お前は10年もパトロンの下で働いて馬鹿だ』と言われましたが、国武さんからは仕事は任せてもらっていましたね」と実直だった下積み時代を振り返る。
 27歳の時に夏子夫人と結婚してからも国武氏の下で農業生産を行っていたが、当時、ピラール管内の東山植民地の土地を売り込みに来る日本人がいた。独立を考えていた南さんは同地を視察し、その土地を買いたいと思っていた。
 しかし、国武氏からは「インフレがひどいから、土地を買うのはもう少し我慢しろ」と言われて従った。その後、「上の子供が3歳になったころに『今、移らないと』と思っていたら、パトロン(国武氏)が東山植民地の土地を買ってくれた」という。長年、下積みで耐えてきたことに対するパトロンからの祝いのプレゼントだった。
 こうして69年に独立し、東山植民地に入植した南さんはトマトを中心に、バタタ、ナスビなどを生産してきた。「ジャラグアから比べると土地が平坦で本当にほれ込みましたよ」と同地への愛着を示す南さん。特にトマト生産には定評があり、当時ピラール管内の「サンパウロ中央会」農協の会員になっていたが、高品質でよく売れたという。
 しかし、その後にサンパウロ中央会がつぶれ、約10年間トマト作りをしていた南さんは南伯農協へと移り、遅まきながら果樹栽培に移行。当初は洋ナシ作りに励んだ。
 現在は、長男の勇一(ゆういち)さん(45、2世)が果樹栽培を継いでおり、柿、アテモヤ、アメイシャや桃などを生産している。特に桃は、7種類を栽培しており、「9月終りから1月半ばにかけて、(収穫を)切らさずにやっていけるようにしています」と工夫している。また、生産物はCEAGESP(サンパウロ州食糧配給センター)に出荷しなくても、サンパウロ州内をはじめ、パラナ州やミナス・ジェライス州からも直接買い付けに来るほどとなっている。
 ピラールで農業生産を引き継いでいる2世には、サンパウロ州ポンペイアにあった西村農工の卒業生やブラジルの農業大学を卒業して技師の資格を持つ人材も少なくない。南さんは、試行錯誤しながらも「果物の里」としての地位を築き上げている、若い世代の今後の活動に期待している。(2013年9月号掲載)


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松本浩治 :  
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