西田美紀子さん (2023/07/02)
「(花柳)龍千多(りゅうちた)先生との関係は、これからも死ぬまで続きます」―。7月にクリチバ市で開かれているパラナ国際民族芸能祭の日本移民公演に毎年のようにサンタ・カタリーナ州フロリアノーポリス市から駆け付ける西田美紀子さん(61、長崎県出身)は、踊りの師匠だった花柳龍千多さん(サンパウロ市在住)への思いをこう語る。 現在、西田さんはフロリアノーポリス市内で鍼灸・マッサージ業を次女と一緒に行っており、多忙のために舞台からは遠ざかっているが、「またいつか時間があれば戻りたい」と日本舞踊への思いを持ち続けている。 祖父が戦前移民で、サンパウロ州で生まれた日系2世の父親は日本で軍人となり、幼少の頃から厳しい躾(しつけ)を受けたという西田さん。1962年に11歳で渡伯し、サンパウロ近郊を転々とした後、アチバイアでカーネーションなどの花作りを5年ほど行った。 当時、厳格だった父親の命令には「絶対服従」だったとし、父親が自宅に戻った際には「家族みんなで両手をついて、あいさつして迎えなければ怒られた」ほどだったという。また、少女時代には電気を無駄にすると叱られるため、「学校にも行けない時代で、日本語を覚えるため毛布をかぶって懐中電灯の明りで勉強しました」とも。 72年、観光で遊びに行ったフロリアノーポリスが「故郷の長崎に似ている」と気に入り、そのまま居つくことになった。 同地で兄とともにバール(BAR)業などを行ったが、元々身体が丈夫でなかった上に腰を痛め、手術をするために88年、渡伯後初めて日本に戻った。身体のリハビリがきっかけとなり、自ら鍼灸・マッサージの勉強を行ったことが、西田さんのその後の生活の糧となった。 ブラジルに戻り、93年から本格的にマッサージ業を開始。生活にも余裕ができだした頃、「若い時からの夢だった、踊りをしたい」と思うように。フロリアノーポリスには日本舞踊の指導者はおらず、当初はサンパウロ市まで通おうと考えていたところ、「クリチバに踊りの先生がいる」と伝え聞き、97年に花柳龍千多師匠の門を40代になってからたたいた。 フロリアノーポリスからクリチバまでは、長距離バスで約4時間。西田さんは仕事の合間を見つけて、日本舞踊の稽古を行うため毎週、師匠のもとへと通った。 西田さんに対する師匠の指導は、人一倍厳しかったという。稽古中に人前で叱られることも多々あったが、「自分にとっては、先生が厳しく接してくれたことが良かった。先生から自分を見てもらっているとの思いが強く、『これは一生懸命やらなくては』と思い、踊りを習って上手くできた時には何とも言えない達成感がありました」と当時の思いを振り返る。 西田さんは、仕事の都合で2001年までの5年間で日本舞踊を一時中断しているが、龍千多さんとの交流は現在も続いており、「余裕ができたら、ぜひまたお稽古に戻りたい」と意欲を見せる。 現在、次女のマリーナさんと一緒に「MIMA」という名前のマッサージ店をフロリアノーポリス市内に2店開業している。店名の由来は、自身とマリーナさんの名前の頭文字を取ったもので、9人のマッサージスタを指導している。 「マッサージの仕事でも、踊りのお稽古と同じようにあいさつから始まります。人を扱う仕事は、その人のエネルギーが良くなければなりません」と西田さん。日本舞踊で得た教訓を、マッサージ業でも生かしている。 現在の大きな目標は、来年(2014年)2月にマッサージの技術を文章と写真で記した初めての書籍をポルトガル語で出版すること。何事にも全力を尽くす西田さんは今も多忙な日々を送っている。(2013年10月号掲載)
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