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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
片所義雄さん [画像を表示]

片所義雄さん (2023/07/09)
2013年11月号片所義雄さん.JPG
 「お前ら、こんな小さな国におっても仕方ないぞ」―。
 日本に一時帰国していたブラジルと米国在住の親戚たちの言葉がきっかけとなり、片所義雄(かたしょ・よしお)さん(78、群馬県出身)は、兄夫妻と母親の4人で1954年10月、神戸港を後にした。行き先はアマゾンのパリンチンスだった。
 父親は町内でも1、2番を誇る建具職人だったが、片所さんが高校2年の時に死去。母親のきみさんは病気がちで、入退院を繰り返していた。片所さんは学校に行きながらも、家事をする毎日だったというが、そうした頃にブラジル行きの話が舞い込んだ。
 片所さんは渡伯前に千葉県の医科大学に合格していたが、高校時代にケガをして登校日数が足りず「大学に通うのはダメだと思った」とし、ブラジル行きを決意した。
 パリンチンスには8家族一緒にベレンから商船に乗り換え、2週間かかってようやく着いた。当初は「えらい所に来たと思った」片所さんだが、「高拓生たちが紳士的に振舞ってくれていたお陰で、ブラジル人たちからはヴォッセ(おまえ)ではなく、セニョールと言われた」という。日本人であるという信用とともに医学部を受験した知識で注射も打てたことから、しだいに「ドトール」と呼ばれ、「ペニシリンを打つだけで尊敬されたね」と当時を振り返る。
 60年、「ピメンタを植えたほうが早く稼げる」と一家でトメアスーへと移転し、片所さんは2回目の米の収穫時期を迎えた22歳の誕生日からちょうど1年間、生死の境をさ迷った。マラリアの熱を抑えるために「パルダン」という青い薬を投薬し続けて中毒症状となり、「血液細胞欠乏症」だと後に分かった。 
 幸いだったのはちょうどその頃、日本から聖マリアンナ医科大学教授で東南アジア熱帯学研究の座長がアマゾン地域を視察していた。片所さんはマナウスから直線距離で約150キロ離れたウルカラにいた教授のもとを死ぬ思いで訪ね、症状を診てもらうことができた。
 1年間の寝たきり生活の影響で、その後も10年間は身体の調子が思わしくなく、「500メートル離れた隣の家に行くことすらできず、畑に行っても労働者を使って見てるだけ」だった。しかし、かえってそのことで仕事の能率は上がったという。同地に入植してからは毎年5000本のピメンタを植え付けさせた。農業活動の合間には日系歯科医のもとで手伝いもし、片所さんも地元群長などの歯を抜いたこともある。医学の経験がここでも役立った。
 同地では、当時のトメアスー産業組合の理事長などを歴任した押切他男(おしきり・たにお)さんに仲人を依頼し、幸子(さちこ)夫人と結婚した。
 20年間のトメアスーでの生活で片所さんは、単作生産の怖さを肌で感じていた。カカオ、ピメンタ、ゴムなどはすべてその時の景気に左右されてきたからだ。「クプアスー、アセロラなどの熱帯果樹栽培に銀行融資ができるうちに頼むことができれば」と組合で主張するうちに、当時のジャミック(現・JICA)の所長が「君は面白い話をするな。よし、融資しよう」と約束を取り付けた。融資とともに農業技術・経営指導者の派遣も申請した。
 「金をもらっても一時的なもので終わってしまう。人を育てることも大切だった」
 身体の調子は良くなくとも、気力と物事の先を見越したアイデアが片所さんを支え、移住地の人々からの信用を得た。
 また、野球のコーチも約20年間にわたって携わった。少年野球チームをサンパウロに遠征させる話が上り、片所さんたちが中心となり寄付集めに移住地内を回ったこともあった。
 80年、20年過したトメアスーを出てベレンに移ることに。仲人の押切氏からは「お前が村を出て行ったら、誰がトメアスーの面倒を見るんだ」と反対されたが、子供の教育を考えるとどうしようもなかった。
 「今にして思えば、トメアスー時代が一番思い入れがあったね」と語る片所さんだが、「お袋が可哀想だったな。もう少し良い思いをさせたかった」とも。あまり身体が強くなかった母・きみさんはトメアスーに入植後5、6年で持病の胆石により72歳で亡くなっている。
 4女1男の子供たちは独立し、ベレン、サンパウロ、バイア、マナウスと各地域に別れて住んでいる。片所さんは現在、幸子夫人と2人きりでベレン市内に暮らし、それぞれゴルフ、琴や体操などの趣味を楽しみながら充実した日々を過ごしている。(2013年11月号掲載)


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松本浩治 :  
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