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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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岩間健さん (2023/07/15)
2013年12月岩間健さん2.jpg
 「初めて日本に帰った時は感動して、もう死んでも良いという感じだった」―。パラー州サンタレン在住の岩間健(いわま・たけし)さん(64、三重県出身)は、渡伯して12年後に一時帰国を果たした時の喜びを、こう語る。コショウ栽培を経て、現在は同地でマンションなど4軒の不動産を建設・経営し、自ら電気の配線や内装を整えたりと充実した日々を送っている。
 三重県鈴鹿市の実家は米や茶などを栽培する農家で、長男の岩間さん自身も農業は好きだった。しかし、後継者問題で父親と話が合わず、「日本が面白くなく、15歳の時からブラジルに行きたいと思っていた」という。
 高校を中退して夜学に通いながら、ブラジルに行くことを目的に長距離運転手の仕事に就き、4年間で300万円の資金を貯めた。一般人の月給が5万から7万円の時代、岩間さんの月給は30万円と高額だが、「気を抜ける時が無い」生活だった。
 「赤城山」の海外移住センターで半年間の農業研修を経てブラジルに渡る際、事業団(現:JICA)側から「サンパウロは『移住』ではなく、『移転』。どうせ行くなら『ピラミッドの頂上に上れる=成功』確率の高い北伯」を勧められ、75年に飛行機で渡伯した。
 「ブラジルに行くなら日本で結婚しておいた方が良い」との助言を受け、渡伯前年に海外移住婦人ホームで紹介してもらい、現在のあつ子夫人(61、静岡県出身)を77年に花嫁移民として呼び寄せた。
 岩間さんが最初に入植したのは、パラー州のサント・アントニオ・ド・パラー。パトロンのもとで世話になり、コショウ栽培に携わり、3年間を同地で過ごした。4年目に独立し、先輩日本人の世話で78年にサンタレンに土地を購入。
 「長距離運転手で大事に貯めてきた金を、その時に初めて使った。本当に嬉しかった」と岩間さんは、「虎の子」の貯金を長年の夢の実現のために注ぎ込むことができたことを、目を細めて振り返る。
 当時は日本人1世も数多く、ほとんどの人がそうだったようにコショウを植え、最初は1万本から徐々に増やし、最盛期には約8万本にまで至った。
 「サンタレンの魅力は(コショウの)病気が無かったこと」と岩間さん。その間、ベレンでコショウの病気について2年間勉強したことも、後のコショウ農園運営に大きな成果をもたらした。
 「こまめにトラッタメント(管理)すれば、コショウは結構、長持ちした」
 87年にはコショウ価格が高騰して当たり、渡伯してから家族揃って初めて日本に一時帰国することができた。
 その後、91年には日本に出稼ぎに行きながらも、サンタレン近郊でコショウを植え、収穫の時期に戻るなどしていた。値段の安い時にコショウを倉庫で寝かせ、高騰を待って「売り」に出したことなどで儲けた。
 コショウ栽培は2002年まで続け、その後はコショウで得た資金を元手に事務所などが入居する商業ビルやマンションなどを建て、賃貸業を営むことに。
 その間、「昔は10人ほど居た」という岩間さんのような雇用青年が日本に帰国したり他の場所に移転したりし、「今は誰も居なくなった」という。
 現在、4軒の不動産の経営管理を行っている岩間さんは2009年11月半ば、22年ぶりに日本に一時帰国し、中学高校など学生時代の仲間と楽しいひと時を過した。「ここ(サンタレン)では日本人の友人が居ないのがつまらない。やはり、友人との付き合いが一番大事やね」と話していた。(2013年12月号掲載)


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松本浩治 :  
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