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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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久保諭さん (2023/07/24)
2014年1月久保諭さん.JPG
 「ここ5年ぐらいはトランク一つで南米を行ったり来たり。まるで、『寅さん』みたいな生活よ」―。現在、サンパウロ(聖)州サンミゲル・アルカンジョ市コロニア・ピニャールにある「希望農園」で気の合った仲間たちと共同生活を送っている久保諭(くぼ・さとし)さん(65、和歌山)は、南マット・グロッソ州の「消えた移住地」であるクルパイ移民の一人だ。
 戦中、ビルマ・インパール作戦の志願兵だったという父親は、戦後にドミニカ移民の募集に応募したが選ばれなかった。「それならブラジルに行こう」と1959年、クルパイの第2次移民として家族6人でブラジルに渡った。南マット・グロッソ州ドウラードス市から南東に約150キロの距離にあったクルパイ移住地は56年、和歌山県人の竹中儀助(ぎすけ)氏が社長をしていた和歌山不動産会社によって設立。58年10月に和歌山県のあっせんで第1次27家族が入植し、その後の3年間で計53家族が移住したという。
 「名前の通りのマット・グロッソ(太い原生林)だった」と久保さんは11歳だったころの入植当時を思い出す。見渡す限りの原生林に囲まれて自分たち住む家も建っておらず、家ができる間は第1次移民の家に居候していた。食べ物も着る物も不自由な生活の中で山焼きを手伝い、その後はコーヒーの農作業に従事した。
 入植して3年目にはコーヒーの木もいくらか大きくなったが、大霜が来て全滅。そのころ、コチア産業組合が日本の「山本山(やまもとやま)」と提携して聖州タピライで茶を栽培する計画があり、クルパイ移住地の和歌山県人約10家族がタピライへと転住した。
 しかし、「タピライも雨が一年中やまないひどい場所で、山を伐採する作業をしただけで、実際に茶を栽培したことはなかった」という。
パトロンからピエダーデ付近の「サラプイ」という場所で歩合制で土地を借り、トマトなどを生産。その後、独立して「もうけた金で日本に帰ろう」と思っていた矢先、病害にやられてまたもや全滅した。仕方なく同地の標高1200メートルの他人の土地を借りてイチゴ作りに変換。4年ぐらいは良かった。さらに別の土地を借りたが、2年目に雹(ひょう)に降られてイチゴも全滅。さすがに農作業に嫌気が差した。
 友人の誘いを受けてグアルーリョスの街に出て家を借り、キタンダ(八百屋)を始めた。その前には陽子さん(65、北海道)と知り合い結婚もしていたが、同店を改装して「スーパーマーケット」にまで発展させた。しかし、周辺では大型スーパーが台頭し、「このままでは将来的にやっていけない」と思いだしていた。
 そうしたころ、親戚が南マット・グロッソ州で大規模な大豆作りを行っている話を聞き及び、「おれも一丁やったるか」との思いで30代半ばでドウラードス市に舞い戻った。親戚と一緒に歩合制で3年働き、100アルケール(約240ヘクタール)の土地には大豆を中心に裏作にフェイジョンや小麦を植えた。独立して6年間はもうけることができたが7年目に干ばつの被害などに遭い、ハイパーインフレの影響などもあった上に友人を自身の農業融資で資金協力したために経済的に厳しくなった。
 「今のブラジルの政策では農業はやっていけない」と91年、夫婦で日本に出稼ぎに行き、栃木県真岡(もおか)市で神戸製鋼の協力会社で働いた。久保さんが43歳の時だった。その後、息子と娘も日本に行ったが、息子は「ブラジルの大学を出たい」と1人でブラジルに戻った。
 結局、17年間同社で働いた久保夫婦だったが、息子は社会人になると日本には来ない上に、同時期に娘が日本で日系アルゼンチン人と結婚してアルゼンチンに嫁いだ。「夫婦2人で日本にいても、家族がばらばらに離れていては孫の顔すら見られない」と思い、娘に従って日本を後にした。
 移り住んだ場所は首都ブエノスアイレスから約40キロ離れた「ラプラタ移住地」で、約400家族の日系人が住んでいた。しかし、風が強く冬場には零下にまで温度が下がる厳しい環境。長年住んだ温かいブラジルへの思いが募り、2011年にブラジルに戻って来た。
 グアルーリョス市の親戚の家に住んでいた諭さんは「街で何もしないと体がなまる」とし、今年6月ごろからはコロニア・ピニャールにある「希望農園」で仲間たちと共同生活を送ることになった。
 長年放置されていたビワや柿の木の剪定(せんてい)、芽かき作業などやる仕事はいくらでもあるが、「絶対に無理をしないことがここのモットー。皆で楽しく、明日への活力につながることが大事だ」と久保さんは、「この5年間でやっと自分の気に入った仕事に落ち着いた」と充実した表情を見せる。
 達者な口ぶりを武器にした営業力と人並み外れた胆力で苦しい時代を乗り越えてきた久保さんだが、明るく前向きな性格がそれを感じさせない。「仕事が自分の宝。働くことは誰にも負けない」と言いながら、うれしそうに笑った。(2014年1月号掲載)


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松本浩治 :  
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