移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
マツモトコージ苑
     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
澤岻安信さん [画像を表示]

澤岻安信さん (2023/07/31)
2014年2月号澤岻安信さん.JPG
 「平和な生活を送ることが僕らの希望。ここ(ブラジル)に来た以上、当時のことをすっかり忘れてブラジル人と手を取り合っていきたい」―。こう語るのは、1955年に沖縄県宜野湾(ぎのわん)市伊佐浜の土地を当時統治下にあった米軍に強制的に接収され、57年にブラジルに渡ってきた「伊佐浜(いさはま)移民」の一人である澤岻安信(たくし・あんしん)さん(81)。沖縄戦で家族を亡くした上、戦後に米軍に土地を取られたつらい経験を「もう忘れたい」と本音を吐露する。
 45年4月、当時13歳だった澤岻さんは沖縄戦で米軍が上陸直後、実家に避難しようと暗い夜道を母、弟妹たちとともに歩いていた。突然照明弾が打ち上げられ、周辺が昼のように明るくなったかと思うと機関銃の音が炸裂して家族は殺された。一人だけ助かった澤岻さんは米軍の捕虜に。
 30~40人が一緒だった捕虜生活の後、澤岻さんは古里の伊佐浜へと戻り、フィリピンへの出稼ぎから帰った父と一緒に「沖縄3大美田の一つ」と言われた同地で米作を行った。
 しかし、戦後も米軍の統治下にあった沖縄では米軍基地の拡張が開始。54年7月には伊佐浜の住民に対して立ち退き勧告が行われ、死活問題となる住民たちは当時の琉球政府などに陳情を訴え、どうしても立ち退きする場合は代替地と生活の保障を要求したが、米軍は全く受け入れなかった。
 それどころか、翌55年7月に米軍はブルドーザーと銃で武装した兵隊により強制立ち退きを行使し、住民の家屋や農地を破壊して無理矢理土地を接収する暴挙に出た。
 接収された土地には鉄条網が張り巡らされ、自分たちの土地であっても入ることは許されない。土地を奪われた住民たちは、沖縄本島各地に代替地を求めてさまよい歩いたが適地は見つからず、57年8月、琉球政府は同年3月に行われたブラジルでの事前調査を経て伊佐浜移民10家族59人をブラジルに送ることを決定した。
 「沖縄戦で泣き通し、土地を取られてまた泣き通しの思いでした」
 沖縄で農作業の合間にタクシー運転手などをしていた澤岻さんは、当時25歳。妻・米子(よねこ)さんと2歳の長男を連れて他の9家族とともに「チチャレンカ号」で海を渡った。船賃と定着資金は琉球政府が立て替えたが、72年に沖縄が日本に返還されたことで「結局は払わずに済んだ」という。
 10家族を引き受けたのは、サンパウロ(聖)州ツッパン市でコーヒー農園を経営していた沖縄県人の田港朝特(たみなと・ちょうとく)氏と島袋完忠(しまぶくろ・かんちゅう)氏の2人のパトロン。それぞれ5家族ずつが入植し、澤岻家族は島袋氏の農園に入った。
 しかし、エンシャーダ(鍬)を手に血豆を作りながら午前6時から12時間働いても借金ができる生活が続き、「入植当初はブラジルに来たことを後悔した」という。
 入植して約1年がたったある日、コーヒー農園の収穫を前に3歳になった長男をコーヒーの木の下に布を敷いて遊ばせていたが、いつの間にか行方が分からなくなった。そこらじゅうを探し回っても居ないので大騒ぎになったが、太陽が沈む前に隣の耕地のブラジル人が長男を見つけて連れてきてくれた。「その時は新移民で言葉も分からず、ただ感謝の気持ちでいっぱいだった」と澤岻さんは、ブラジル人の心の優しさを身を持って感じた。
 コーヒー農園の生活に約3年で見切りを付けた澤岻さんはさらに奥地の聖州サンタ・メルセデスに移り、米やトウモロコシなどを栽培したが、子供も3人に増えて生活は苦しく、62年にサンパウロ(聖)市に出ることに。
  聖市カーザ・ベルデ区に縫製業の仕事に就いたが、慣れない仕事に手間取った。妻の米子さん(81)は「縫っても、縫っても(当時の)7コントの家賃が払えなかった。家主に家賃の支払いを延ばしてもらうよう頼んだら、主人にオニブス(バス)の修理工の仕事を紹介してくれた」と振り返る。
 その後、バス会社の「コメッタ社」の修理工として働いたり、フェイランテ(青空市場)やタクシー運転手などさまざまな職業に就き、18年間バール業も行った。
 「口コミで店が繁盛し、ピンガがかなり売れました。私はピンガは飲みませんが、ブラジル人の客には多目に注いでやると喜んでくれてね」
 現在住んでいる家はバール業で得た金で建設。その後、長男が同地でメルカドを30年間経営してきた。生活も楽になり、2002年からゲートボールを始めた澤岻さんは、毎朝8時から沖縄県人会カーザ・ベルデ支部のゲートボール場などに通っている。 
 90年代前半に渡伯後初めて古里に戻ったが、米軍の設備が建ち並んでいた。
  「浜は埋め立てられ、『伊佐浜』という名前はバス停しか残っていなかった。その後何回か訪日して同級生たちが歓迎してくれたのは本当にありがたいが、(沖縄戦で米軍に殺された)家族の遺骨はいまだに分からず、泣くに泣けない状態です」と澤岻さん。「昔のことはもう忘れたい。これからは笑顔で気持ち良く生きていきたい」との思いで毎日の生活を続けている。(2014年2月号掲載)


前のページへ / 上へ / 次のページへ

松本浩治 :  
E-mail: Click here
© Copyright 2024 松本浩治. All rights reserved.