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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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硴久博さん (2023/08/06)
2014年3月号硴久博さん.JPG
 「父親が苦労した姿を見て、お寺ぐらいの大きな家を建ててやろうと思いました」―。1952年12月28日に神戸港を「さんとす丸」で父母と3人で出航し、戦後の第1回ジュート移民として海を渡った硴久博(かきひさ・ひろし)さん(78、熊本)は、ブラジルに行こうと思った時の気持ちをこう語る。
 父親の秀章さん(故人)は熊本県本渡(ほんど)市(現・天草市)の「円覚寺」の3男として生れたが、長男が早くに亡くなったため寺は次男が継承。そのため、秀章さんは熊本市内にある水前寺公園に茶菓子の店を開いて生計を立てていた。しかし、米軍の空襲で熊本県内は焼け、店を続けていくことは困難な状況だった。
 一人息子だった博さんが高校生だった時、戦後初となるアマゾン移民の募集が新聞に大きく載ったという。「勤め人になったのでは大きな家を建てることは無理」と判断した博さんは、両親を説得して第1回ジュート移民としてアマゾンに入ることを決意し、高校を中退して17歳で両親とともに3人で渡伯した。
 アフリカ回りで53年2月7日にリオデジャネイロに到着した硴久家族は、総勢17家族54人の一員としてリオ市の移民収容所で約1週間滞在した後、マナウスに向かう国内船「カンポス・サーレス号」でパラー州ベレン市を経て、アマゾナス州のパリンチンスに着いたのが同年3月15日。熊本出身の戦前移民である木村一則(いっそく)氏のパトロンの下で、既に収穫され束にして川岸の水の中に浸けられていたジュートを川に潜って岸に担ぎ上げ、腐った表皮をはぐ仕事を行った。
 しかし、その年は約50年ぶりの大洪水が押し寄せ、通常よりも2メートル増水。住む家は熊本県の家族が4軒長屋の形で椰子の葉で屋根を葺(ふ)いた簡素なもの。毎年の増水を考慮して高床式にしていたが、入植してから日に日に増水し、波が家の床をたたくほどになった。
 また、パトロンからはそれまで日給計算の給料と言われていたのが、大洪水の影響で収穫を急がせ「請け負いでやれ」と言われたために給料は目減りし、「このままではここから出られなくなる」と判断。パトロンに話したら「250ドルの借金を払えば出て行ってもいい」と言われたため、2週間目に同地を離れることを決意した。
 各種商品を運ぶ商売船に乗り込み、同じ熊本県出身の永村家族と一緒にベレン港に着いた硴久家族だったが、そこで商売船に乗り込んで来たのは領事館の秘書官だった。その秘書官は「とにかく、元の場所(パリンチンス)に帰れ」とベレンへの上陸を許可しない姿勢だったが、硴久さんたちは「我々は何があっても帰らない」と突っぱねた。秘書官は「それなら領事館はあなたたち(邦人)の面倒を一切見ない」と怒って帰ったそうだが、硴久さんは「我々にとってパリンチンスに戻ることは命にかかわる問題だった。当時はどんな事情があったのか分からなかったが、最初から何を言われても帰らないと心に決めていた」と当時の心境を振り返る。
 日本政府の出先機関である領事館としては、戦後第1回目のアマゾン日本移民が2週間で脱耕したとあっては、受け入れ側のブラジル政府に申し開きができず、硴久さんたちに何とか元の場所に戻ってほしかったようだが、硴久さんは後にパリンチンスに残った家族はひどい目に遭ったことを伝え聞いたという。
 硴久さんらは、ベレン近郊のアナニンデウアの土山という北海道出身の日本人の世話になり、ピメンタ(コショウ)栽培の労働者として約1年半働いた。その後、空軍の野菜作りに従事するなど少しずつ金を貯め、硴久さんはトメアスー出身の日系2世の日出子さんと23歳の時に結婚した。
 数年後にサンタ・イザベル市に約20町歩の自分たちの土地を購入し、ピメンタ園を造成。10年間ピメンタ栽培を行い、「今年は良い値段で売れる」という年にネマトーザ(根腐れ病)にやられ、ピメンタが全滅した。仕方なく農業を断念し、ベレン市内でオートバイの部品を販売する商売や八百屋などをやった。この時の八百屋が当たり生活を支えることができたが、硴久さんは「日本から出てくる時は大農場主を夢見たが、ブラジルの事情を知ると簡単な仕事ではないと痛感した。ここ(ブラジル)では子や孫の時代になってようやく楽になる」と感じている。
 現在、娘や息子たちはそれぞれに独立し、硴久さん自身は日出子夫人とともにベレン市内で家賃収入で生活している。ベレン日系協会の副会長を務め、ベレン囲碁協会会長を10年間歴任している硴久さん。「限りなく楽しい」という碁を打ちに、毎週日曜に同協会に約10人のメンバーと集まり、月に1回は大会もあるという。
 父親の秀章さんは、1983年に74歳で他界した。日本にはこれまで10回ほど一時帰国しているが、「戦後第1回アマゾン移民脱耕者の烙印(らくいん)を押されたが、60年間ブラジル社会で暮らしブラジル人たちと付き合う中で、それなりに日伯交流に尽くしてきたと思う」と硴久さんは、ブラジルに来たことを喜びこそすれ、決して後悔はしていない。(2014年3月号掲載)


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松本浩治 :  
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