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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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渥美明さん (2023/08/21)
2014年5月号渥美明さん.jpg
 「高校時代のグラウンドは、富士山や伊豆大島が見えるとても環境がいい場所だったですね」―。こう語るのは、1950年代半ばに神奈川県立鎌倉高校で野球をやり、現在も身長は182センチと長身で細身の体型を保っている渥美明(あつみ・あきら)さん(76、東京)。小学校から野球を始め、湘南学園小学校野球部で左利きのエースピッチャーとしてならし、春と秋の大会で優勝した経験を持つ。ちなみに、当時の同級生には現在の作曲家・平尾昌晃(まさあき)氏もおり、一緒に写った写真を渥美さんは他の野球資料とともに今も大切に保管している。
 渥美さんには鵠沼(くげぬま)中学時代から、野球部の練習とは別に個人でコーチを受けていた人物がいた。明治大学でキャッチャーをやっていた室井豊(むろい・ゆたか)さん(故人)と言い、50年代半ばごろに野球のコーチとしてブラジル中を回った経験もあったという。
 その室井氏のコーチを高校1年の冬に本格的に受けた渥美さんは、ピッチャーとして高校野球のマウンドに上りたいとの強い思いがあった。走り込みなど基礎体力を付けるためのトレーニングが主だった。数百回に及ぶ素振りなどもやらされたが、「厳しいというよりも野球に対する楽しい思い出のほうが強かった」と渥美さん。高校2年になった時には、レフトを守りながらレギュラー・ピッチャーの控えになっていた。
 今でも忘れられないのは、高校2年の夏の大会だ。当時51校が出場していた神奈川県予選大会の3回戦で優勝候補の浅野学園と対戦。2―4で負けていたが、 9回裏でツーアウト満塁の一打サヨナラ逆転のチャンスをつかんだ。しかし、日没でグラウンドは「ボールが見えないほど暗い」(渥美さん)状態になった。その時、相手側監督で当時神奈川県野球連盟理事をしていた水谷勝(みずたに・まさる)氏が一時中断し、翌日に同じ状態から再試合を行う「サスペンデッド・ゲーム」を主張した。
 翌日午前7時から開始した試合には朝早くから母校のブラスバンド部や生徒など応援団も駆け付け、当時の5番打者で佐藤という選手が三塁打を放ち、5―4と劇的なサヨナラ試合で勝利した。4回戦は法政二校に0―1と接戦の末に敗れたが、鎌倉高校の勇名が県内に響くようになった。
 既にレギュラー・ピッチャーになっていた渥美さんは3年に上がる前の秋の大会で好成績を収め、55年当時の地元紙・神奈川新聞に春の選抜高校野球予選結果を展望する座談会の中でも有力選手の一人として名前が挙げられていた。
 3年になった春の大会では、1回戦の小田原高校を2―0で完封した後、2回戦では横須賀商業に15―0と6回コールド勝ち。続く3回戦(準決勝)は、前年の夏の大会でサヨナラ勝ちしている宿敵・浅野学園だったが、結果は4―6で惜敗。3位決定戦では、開成(かいせい)高校に0―1と敗れたが、ベスト4に入る結果を残せた。
 しかし、3年の夏の大会では、横須賀工業高校と対戦して1回戦で敗退。先発投手だった渥美さんは当時腰痛を患っており、高校野球生活最後となる公式試合で思いもしない苦い経験を味わった。
 高校卒業後は、中央大学に野球で受験したが合格できなかった。「浪人するのは嫌だった」渥美さんは、当時たまたま見た「主婦の友」にブラジルのコチア青年の体験記が掲載してあった記事を読み、「2~3年、ブラジルでも行って頭を冷やそう」と思って渡伯のことを家族に話したところ、一家そろってブラジルに行くことになったという。
 57年1月に「ボイスベン号」で海を渡った渥美家族はサンパウロ州ゴヤインベーのコーヒー園に入ったが、4カ月でサンパウロ市近郊のイタケーラに転住。同年5月には、渥美さんは日本での野球の経験を買われて「セントラル」チームに入っていた。
 その後、26歳で聖南西地域の日本語教師になった渥美さんは、コロニアの野球にも没頭。58年の移民50周年を記念して来伯した早稲田大学野球部との親善試合(全16試合)にもオールブラジルの一員として参加した経験を持つ。3年ほど前までオールドボーイのチームでも野球をやっていた渥美さんだが、現在は体調等の問題で野球の練習や試合に参加することは少し遠ざかっている。
 現在の日本の高校野球大会をテレビで見て思うのは、自分たちの時代に比べて随分と専門的になってしまったことだという。「私たちの時代は純粋な郷土愛があった。今は青森でも宮城でも関西に住む高校生が名門高校で野球をやるために移り住み、プロへの入団を意識した土台づくり のために野球をやっているように思える。有名高校ばかりが甲子園に出場する中で、やはり自分たちが出たような公立高校が出てくると拍手したくなりますね」 と渥美さんは、時代の流れを感じているようだ。
 それでも、「野球は自分の人生を決める最大の存在だった」と今でも野球に対する熱い思いを持ち続けている。(2014年5月号掲載)


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松本浩治 :  
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