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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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及川定一さん (2023/09/03)
2014年7月号及川定一さん.JPG
 「今年で70歳になりますが、アマゾン川の水銀調査研究は続けていきたいですね」―。パラー連邦大学医学部長を務め、アマゾニア日伯援護協会が運営するアマゾニア病院の内科医でもある及川定一(おいかわ・ていいち)さん(宮城県出身)は、その傍らでアマゾン川支流での水俣病調査を行うなど、今でも精力的に活動している。医者を志した背景には、子供移民としてベルテーラのゴム園に家族と入植するなど、アマゾン地域で家族や日本移民たちが医者の居なかった時代を過ごしてきたことを目の当たりにしてきたことへの思いがある。
 1955年4月、第2次ゴム移民として父母、いとこ、兄弟5人と一緒にパラー州ベルテーラに入植した定一さんは当時10歳。父親の陸郎(りくろう)さんは中央大学法学部を卒業し、戦前は日本の内閣職員として勤めていた当時のエリートで、農業経験は無かった。
 ベルテーラに入植後は家長の陸郎さんがゴムの木を切る担当として働いたが、1カ月後にはモンテ・アレグレ市内から約80キロ離れたアサイザールに移転した。当時のアサイザールには原始林が広がり、定一さんは子供ながらにジャングルにはヒョウ、ワニや吠え猿などが居たことを覚えている。さらに2カ月後にはベレン、トメアスーを経て及川家族はサンタレンへと落ち着いた。
 小中高校をサンタレンで過ごした定一さんは言葉の問題もあったが、苦学して23歳でベレン市内のパラー大学医学部に入学し、28歳で卒業した。その後、出聖してサンパウロ総合大学(USP)で研修し内科及び内分泌学を学び、77年にベレンに戻りアマゾニア病院で内科医として勤務。翌78年にはパラー連邦大学医学部で内分泌について教授するようになり、35年間にわたって学生たちと接している。
 同大医学部で糖尿病、甲状腺、ホルモン関連を教える定一さんは一昨年(2012年)、医学部長に就任した。「学生たちに教えることが好きだが、何事も体験させて実地で教えることが大切」とフィールドワークに力を注ぐ。
 92年にはベレンで開催された「ブラジル熱帯研究学会」で水俣病の権威の故・原田正純(まさずみ)氏の通訳を務めて同氏と知り合い、その後は自らサンタレンから300~400キロ離れたタパジョス川上流に住む地元住民の水銀調査を実践。原田氏とともに熊本県水俣市を訪問して胎児性水俣病の現状を視察したり、第2水俣病が発生した新潟県の阿賀野川流域を訪問したこともある。
 「90年代は8~9割がタパジョス川の上流にガリンペイロ(金採掘人)が集中し、金を取るために水銀を使用するため、流域の住民が取る魚が水銀に汚染されたりしました」とその時の状況を説明する。現在は以前よりも金の生産量が減少して水銀汚染も収まっているというが、「タパジョス川流域の住民に水俣病の症状が出ているわけではないですが、水銀に汚染されているのは間違いない」と定一さん。今もサンルイス・ド・タパジョスとバレイラスに住む地域住民計約 4000人を対象に定期診療も兼ねて水銀調査を続けている。
 また、アマゾニア日伯援護協会が年2回実施するアマゾン奥地への巡回診療にも同行し、普段は言葉の問題から病気についての率直な悩みを話せない高齢者1世の応対も行っている。
 2012年からパラー連邦大学の医学部長に就任したが、「生徒への指導以外に、教授たちの指導、職員との関係や政治的な問題もあって難しいですね」と本音を語る。
  97年に天皇皇后両陛下がベレン市を訪問された折には、パラー州知事から依頼されて通訳を頼まれ、アマゾン川の遊覧時に両陛下と一緒に同行した経験も持つ 定一さん。ブラジル社会の中で生きながら日本人としての思いを持ち続けるのは、父親から受けたスパルタ式の厳しい教育があった。
 「父親からはよく間違ったことをすると、『これは及川だけの問題ではなく、民族の問題。日本人として恥をかくようなことはするな』と言われました」
 父親の陸郎さんは他界して既に約20年がたつが、母親の千賀子さん(94)は今も元気で暮しているという。
 今年、古希(70歳)を迎える定一さんは今後、大学は引退してもアマゾン川での水銀調査を継続していくことについて「研究者としての義務ですよ」と述べ、表情を引き締めた。(2014年7月号掲載)


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松本浩治 :  
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