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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
植田いく子さん [画像を表示]

植田いく子さん (2023/10/30)
2014年9月号植田いく子さん.JPG
 子宝に恵まれ、現在はサンパウロ近郊のスザノ市で暮らす植田(うえだ)いく子さん(83、兵庫県出身)。1958年6月、オランダ船「テベルヘベル号」でアルゼンチンのブエノスアイレス経由でパラグアイ移民として同国南部の「アペリア」に入植。その6年後にブラジルに移住した経験を持つ。
 いく子さんの実家である高橋家は、兵庫県高砂(たかさご)市で酒類や燃料を扱う店を経営していた。男1人女3人の4人兄妹の長女として生まれ育ったいく子さんは、幼少のころからすでに許婚(いいなずけ)がいたが、53年、家の期待とは裏腹に近くの家でやはり商売をしていた植田成男(しげお)さん(故人)と結婚した。22歳の時だった。
 夫の成男さんは、兄が先にブラジルに移住していたこともあり、海外雄飛の思いを馳せて自身もブラジル移住の手続きを行った。しかし、構成家族をつくった成男さんの従姉妹が四親等だったことでブラジル側の入国許可が下りなかった。仕方なくパラグアイに行くことになり、土地代の半金を支払ったという。
 いく子さんは当時、すでに子供が2人いたので「本当は来るのは嫌だった」というが、夫の意見に従わざるを得なかった。
 58年6月、アフリカ廻りのオランダ船でアルゼンチンのブエノスアイレスに着いた植田家族は、そこから汽車で2日かけてエンカルナシオンを経由し、南パラグアイの「アペリア」という日本人入植地にたどり着いた。
 当時の入植数は7、8家族。同地はロシア人が土地を拓き、水を使用するのに権利が必要だった。植田家族はその権利付きの土地を購入したことで、周りの日本人が綿作やミーリョ(トウモロコシ)などを中心とした生産活動を行う中で、入植地で唯一、米作を行うことができたという。また、それらの米を同地在住のドイツ人が買い上げてくれ、比較的安定した生活が維持できた。
 しかし、原始林が残る移住地での生活に物足りなさを感じていた植田家族は、64年にブラジルに移住することを決意。当時、ブラジルの永住権は「金で買えた」ほど簡単に手に入れることができたというが、住む場所がない。
 そのころ、5人に増えていた子供を連れて、サンパウロ市リベルダーデ区のエスツダンテ街にあった日本人旅館に約1カ月滞在した後、思い切って成男さんの兄のいるスザノを訪ねた。ちなみに、成男さんの兄は翌65年に日本に帰国している。
 「主人は、他人の3倍も働く人だった」といういく子さんの言葉通り、成男さんはスザノに移転後は、日本での旧制工業高校の経験を生かし、日系地場企業に就職。その後は鍵などの自動型抜き機械を製造するなど、事業もうまく運んだ。
 そうした中、相次ぐ不幸が、いく子さんを襲った。70年代後半、UMC(モジ大学)夜間部への入学を前日に控え、化学薬品会社への就職も決まっていた長男が、川で泳いでいた際に心臓麻痺で死亡。79年には、夫の成男さんがイーリャ・ベーリャ海岸で溺れた人を助けに入って、自らも溺死した。まだ47歳の働き盛りだった。
 その翌年から、いく子さんは地元スザノの西本願寺に入信し、12年間にわたって活動してきた。諸事情により現在は寺を離れたが、「長い間、お寺でお世話になって、引っ込み思案だった自分を何とか成長させていただきました」と、夫と長男亡き後の生活を精神的に支えてもらったことに感謝する。
 また、いく子さんの寄付などがきっかけとなって95年に設立され、10年近くで生徒数が激増した地元の私立学校の成長ぶりに、「こんなに生徒が増えたのかと本当にびっくりしています。ありがたいことです」と笑顔を見せる。
 子宝にも恵まれ、亡くなった長男を含め12人の子供を生み、今では、孫や曾孫もいるなど大家族となっている。
 「辛いこともたくさんありましたけど、今は本当に幸せ」と、いく子さん。大家族に見守られながら、現在の生活を楽しんでいる。(2014年9月号掲載)


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松本浩治 :  
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