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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/12/08)
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須藤忠志さん (2023/11/07)
2014年10月号須藤忠志さん.jpg
 現在、パラー州ベレン市に住む須藤忠志(すどう・ただし)さん(81、東京)は60年前、グァポレ連邦直轄州(現・ロンドニア州)ポルト・ベーリョ市から約15キロ離れたトレゼ・デ・セッテンブロ植民地に入植し、青春期を過ごした経験がある。構成家族を組み、父母や兄2人らと2家族でブラジルに渡ることになり、通っていた早稲田大学法学部を4年で中退した。
 入植当初は、須藤さんら若手が中心となり自主的に青年団を結成。労働力の不足している家族の耕地に率先して行き、農作業や雑役などを手伝った。「10人ぐらいの青年がワーッと行って手伝うんだが、決してお金は取らない。その代わりに皆で夜に飲むピンガの2、3本でも用意してくれと言ってね」
 当時、植民地で作った農業生産物をポルト・ベーリョの街まで運ぶのに州のトラックが来ていたが、ある時、いつまで待ってもトラックが来ない。「よし、担いで行こう」と、兄と一緒に約15キロの道のりを街まで歩いて運んで行ったこともあった。
 しかし、そうした生活の中で須藤さんは、夜には大木を倒した切り株に座り、「おれは一体、こんな所で何をやっているんだろう」と思い悩んことも何回もあったという。
 「ブラジルに行く時は周りの人に3年たったら帰ると言っていたし、実際に金を稼いで帰るものと思っていた」という須藤さん。しかし、植民地の営農作物とされたゴム栽培は思うように進まず、持参してきた金も減っていく一方だった。さらに、日本に帰るためにはサンパウロまで出なければならないが、その金さえ無い。
 入植して1年がたったころ、「兄弟3人がこんな所にいても、らちがあかない」と判断し、兄から「お前は外に出ろ」と言われた須藤さんはブラジルで生きていく決心を固めた。22歳の時に、同船者でパラー州トメアスー移住地に入植した安藤親子(あんどう・ちかこ)さん(鳥取、故人)と結婚し、植民地を出て独立。ベレン近郊のサンタイザベル市で義父らと野菜作りに携わった。
 そのころ、大学に進学した経験を持つ移住者は珍しく、須藤さんはベレンの領事館と、戦後のアマゾン移民受け入れの世話を行い会社を持っていた辻小太郎(つじ・こたろう)氏の双方から「働きに来ないか」と誘いを受けた。「これからのアマゾンは日本人が開拓しなければならない」という辻氏の話に感銘を受けた須藤さんは、「(辻合名会社の)支店の中で最も忙しい場所はどこですか」と聞き、自らアマゾナス州のパリンチンスでジュート生産事務所に行くことを選んだ。
 事務作業を担当し、それまで使ったことのなかったタイプライターを独学で勉強し、過去の帳簿を確認しながら仕事を覚えていった。後の三井物産のベレン支店長になる岡田徳太郎(とくたろう)氏が同事務所を訪ねてきたのは須藤さんが働いて約1年後のことだった。話をすると岡田氏が早稲田大学の先輩であることが判明。「1年後に三井がベレンに支店を作るが、働きに来ないか」と勧誘された。
 1年後、岡田氏から正式な入社の要請が来た際、辻小太郎氏に退職する旨を話すと、「給料を倍にするから残ってくれ」と懇願されたという。しかし、須藤さんは「お金の問題じゃありません」とさらに飛躍すべく、ベレンへと出て行った。
 しかし、結婚して8年後に愛妻の親子さんが31歳の若さで急死。その後、ベレンでブラジル人の妻と再婚した。
 当時「ブラジル物産」と呼ばれた新天地で須藤さんは、商社マンとして日本側が要求するガムの原料やコーヒーの調整材などさまざまな物品を探して、提供した。84~87年と91~97年にはサンパウロの三井物産で働き、今ではサンパウロの日本食レストランには欠かせない日本米「田牧(たまき)米」の販売も手掛けたこともある。
 97年に諸事情でベレンに戻った須藤さんだが、汎(はん)アマゾニア日伯協会やアマゾニア日伯援護協会の役員を務めるなど、地元の日系社会にも貢献してきた。
 バイタリティーある行動が須藤さんを支えてきたが、これまでの人生を振り返って「ここまで来れたのは金じゃない。良い人間関係があったからこそ」と実感している。
 「夢があったからブラジルに来た。日本にあのまま残っていたら、恐らく大した仕事もできなかったのでは」―。
 須藤さんは、ブラジルでさまざまな人々に出会えたことに感謝している。(2014年10月号掲載)


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松本浩治 :  
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