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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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水川昇さん (2023/11/17)
2014年11月号水川昇さん.JPG
 毎年、サンパウロ州バストス市で開催されている卵祭りに、日本庭園造園師として会場内の「卵富士(たまごふじ)」制作や庭園の装飾を2011年ごろまで約25年にわたって行っていた水川昇(みずかわ・のぼる)さん(86、岡山県出身)は、バストスから約80キロ離れた同州プレジデンテ・プルデンテに在住している。
 父親が庭師だったという水川さんは1930年5月、3歳の時に両親らに連れられて「神奈川丸」で渡伯。戦前の日本移民の大半がそうであったように、親たちは「ブラジルに金の成る木がある。10年経ったら日本に帰る」との気持ちを持っていたというが、実現には至らなかった。
 水川さん家族は、モジアナ線リベイロン・プレットのカフェ農園に入植。第2次世界大戦前に栽培していたハッカの景気が一時期良かった時代もあったが、終戦と同時に買い手が激減し、綿生産を行ったりもしたが、母親が死去。父親の哲雄(てつお)さんは、当時7人ほどいた子供の教育面を考えて、50年に家族で現在のプルデンテに移転したという。
 哲雄さんは、終戦後の勝ち負け抗争も落ち着いた60年ごろからプルデンテ周辺の寺院の庭園造りなどに携わるようになり、89年に89歳で亡くなるまで続けた。昇さん自身は、同時期の60年代から石材工場の経営者として約20年間働いたが、インフレなどの経済不況により会社運営も思わしくなくなり、父親が亡くなる前から同じ庭師としての仕事を引き継ぐようになっていた。
 「父親がやっていた後に庭の手入れをやれる人がいなくなり、小遣い稼ぎにと始めたのです。しかし、ブラジル人の財閥の家の庭仕事をした時、その人に英語で書かれた日本庭園の本を持ってきて指示され、『ブラジル人が相手だから(日本庭園のことなど)分からないだろう』といういい加減な気持ちでやっていたら、自分が恥をかくと思いました」と89年に日本を訪問し、本格的な造園技術を学んできた。
 バストス卵祭りの装飾には87年ごろから携わってきた水川さんは「始めたころに、(バストスで旅館経営を行っていた)宇佐美の婆ちゃん(同市在住の宇佐美宗一(うさみ・そういち)氏の母親)から、『日本庭園を造ってくれるなら、宿代はいらないから私のところに泊まったらいいよ』と言われて嬉しくなってね。自分の母親のように思いましたよ」と当時の懐かしい記憶を甦らせる。 
 2006年の卵祭りで造ったミニ庭園は、自身が生まれた岡山県に近い「瀬戸内海を象(かたど)った」もので、「自分にとってもまずますの出来」と目を細めていた姿が印象的だった。
 現在の卵祭りの象徴にもなっている「卵富士」は、水川さんが15年ほど前に考案して制作。9000個近い卵を使用し、山頂の雪の部分を造るのが難しかったそうだが、当時は周りから『富士山の爺さん』と言われるほどだった。そのころはバストス史料館前にある日本庭園内の「富士山」も手がけ、「日本人の心に響くものを造りたかった」と富士山にこだわった理由を話していた。
 庭師としての仕事でプルデンテ周辺地域をはじめ、遠方ではパラナ州カスカベル、サンパウロ州ジャウー、リベイロン・プレットなど各地に足を運んだ経験のある水川さんだが、毎年通っていたバストスの卵祭りも、3年ほど前に妻の和江(かずえ)さんが82歳で亡くなったことで、長期間自宅を空けることができなくなり、今は参加していないという。
 それでも、自宅の庭の掃除や周辺の友人宅の剪定(せんてい)作業などは現在も行っている。また、3~4年ほど前から2カ月に1回の割合でサンパウロ市イビラプエラ公園内の日本館に足を運び、天皇陛下お手植えの松の手入れなどを行っているほか、同館作業員に剪定作業を教えたりもしている。 
 子供たちはサンパウロなどの都会へと出てしまい、もはや造園業を継ぐこともないというが、水川さんは「楽しみ半分で、自分が好きだからやっている」と少しずつだが、今も庭師としての活動を続けている。(2014年11月号掲載)


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松本浩治 :  
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