門脇道雄さん (2023/11/24)
ロンドニア州ポルト・ベーリョ市内でヨーグルトをはじめ、冷凍ブロイラーなどの卸売り販売業を手広く行っている門脇道雄(かどわき・みちお)さん(65、山形)。今年(2014年)7月にトレゼ・デ・セッテンブロ(9月13日)植民地で開催された「グァポレ移民入植60周年」記念行事の準備を中心になって進めてきた人物だ。 父親の勝治(かつじ)さん(故人)は、山形で祖父の代から建築大工や請け負い業として働いてきたが、戦中に徴兵され、ニューギニアやガダルカナルなど南方戦線に送られた。終戦後はオーストラリア方面に抑留されたといい、戦後2年半ほどして山形に戻ることができた。 山形に戻ってからも大工の仕事を続けたが、建設業界関係者への接待など癒着に嫌気が差していた。また、妻の敏子さん(87、山形)が当時ぜんそくを持っていたこともあり、山形の厳しい冬の寒さの中、「温かい所に行きたかった」というのが、家族でブラジル行きを決めた理由だったそうだ。 1954年7月の渡伯当時、道雄さんは5歳の子供だったが、「あふりか丸」の船内のことを今でも覚えている。「ボイラー室に行くと船員さんが冷たい水をくれたり、パナマ運河を過ぎて最初の寄港地のクリストバル(パナマ)だったかで父が当時では珍しかったバナナを買ってきて、とてもおいしかったことを覚えています。バナナの匂いを嗅ぐと今でもその時のことを思い出しますよ」と道雄さん。「今から思えば、父母は大変だったと思います」と当時のことを振り返る。 勝治さんが大工だったこともあり、植民地では各家族から重宝がられた。日本から持ってきた大工道具で家を建てることをはじめ、精米所の建設や籾簑(とうみ)と言われる籾(もみ)を吹き飛ばす道具も作った。道雄さんも物心ついた時から父から大工道具の手ほどきを受け、「当時、父親に教えてもらったことが、今でも役立っています」と笑顔を見せる。 トレゼ・デ・セッテンブロ植民地にはブラジルの小学校があったが、家庭で話す言葉は日本語のみ。入植当初から門脇家では、イモ類を植えてポルト・ベーリョの町まで売りに行っていた。当時のグァポレ直轄州がトラックを週に2回出してくれたが、たまに来ない時がある。その時は一輪車に生産物を積み、町まで一緒に運ぶのだが、勝治さんが一輪車を持ち、その前を道雄さんがロープを持って引っぱる役割だったという。 中学校はポルト・ベーリョの町まで自転車で通ったが、「あまり勉強しなかった」という道雄さんは長男だったこともあり、勝治さんも「働き手」として見ていたようだ。66年ごろには植民地にもトラクターが入るようになり、弟の法雄(のりお)さん(63、山形)とともに農業を行い、その後約15年にわたって養鶏にも携わった。 養鶏では、採卵とブロイラーの両方を行い、オートマチック式の扇風機、最新式の吸水機や配合飼料を作る機械など近代的な設備を早くから導入。「合理的な運営をやりたくて、サンパウロやモジ(・ダス・クルーゼス)などから養鶏の雛を送ってもらったり、銀行融資を受けてサイロを作ったりして、マナウスなどの日本人移住地から視察に来ることもありましたね」と道雄さん。その後、30歳ごろから農業に見切りを付けて、商業の道を歩み始めた。 その一番の転機となったのが、74年に完成し、83年にアスファルト舗装されたマット・グロッソ州クイアバ市とポルト・ベーリョを結ぶ国道364号線の道路だった。「便利になった」と当時は喜んだが、養鶏用の配合飼料などが安価で入ってくるようになった。 道雄さんは「別の方向に向けていったほうがいい」と冷凍ブロイラーの卸売り販売業を行うようになった。また、並行してソーセージやヨーグルトなどの冷凍製品を手掛けるようになり、その後冷凍ブロイラーの競争が激しくなってきたこともあり、現在はヨーグルトの取り扱いが中心(全体の60%)だという。弟の法雄さんはアクレ州リオ・ブランコで同じ商売を行っているが、それぞれ独立した形で営業している。 現在、会社の実質経営は長男の泰雄さん(38、2世)と娘婿のブラジル人に任せている道雄さんだが、「この商売も段々とやりにくくなってきました。そろそろ替え時かも」と話す。 「母からは自分たちをブラジルに連れてきたことで、私たちの人生を壊したのではと気苦労をかけたようですが、自分にとっては決してブラジルに来たことを悪くは思っていません。かえってブラジルに来たことで日本に居ては見えないことが広く見える。サンパウロに居ては分からないことが、ここでは分かります」と道雄さんはポルト・ベーリョでの生活を良い意味にとらえる。また、商売に力を注いできた理由について「子供たちに出稼ぎには行かせたくなかったから」と語る。 今後の方向性について、「息子たちがやりたい方向に商売をしていけばいいと思っています。時代はどんどんと変わっていくので、それに適応したことをすればいいし、彼らは適応できるだけのノウハウとフレキシブルさがあります」と信用している。 「この街に根を下ろしたことをしてほしい」―。親の背中を見ながらポルト・ベーリョで生活してきた道雄さんの願いだ。(2014年12月号掲載)
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