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高良幸一さん
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高良幸一さん (2023/11/30)
戦後70周年を迎えた今年(2015年)。サンパウロ市内に住む高良幸一(たから・こういち)さん(79)は日本唯一の地上戦となった沖縄で両親を奪われ、米軍の捕虜となった伯父の世話になりながら生き長らえ、ブラジルに渡った。
1944年10月10日、沖縄本島は米軍の大空襲に見まわれた。小禄(おろく)で生まれ育った高良さんは、その当時の光景が今も脳裏に焼き付いている。
「はじめは日本軍の演習かと思ったら、その2、3分後に空襲警報が鳴り響いた」。長男の高良さんは弟や従兄弟の手を引いて、慌てて防空壕に駆け込んだ。「防空壕の入り口から空を見上げると、真っ黒い煙が立ち上がり、今まで見たことのない真っ赤な夕焼けに驚いた」。後に那覇の町が空襲で全焼したことを聞かされた。
翌45年2月頃、15人一緒だった高良さんの家族は二分。軍の命令により、祖父母たちとともに約80キロ離れた名護市に疎開した。その時の母親との別れが、永遠の別れになるとは夢にも思わなかった。
「もう2、3か月もすれば戦争も終る。それまで辛抱しなさい」―。この世で母と交わした最後の言葉だった。
食糧難にも悩まされた。米軍戦艦からの艦砲射撃の弾の下をくぐりながら、何度も食糧になるものを探し続け、「チババ」と呼ばれる牧草の茎やサツマイモの葉を食べた。
高良さんの父親は当時、防衛隊に召集。那覇、首里など激戦地に派遣されていた。後に聞いた話では、父親は米軍の爆弾の被害に遭い、足を負傷。衛生兵の担架で運ばれて南風原(はえばる)の日本陸軍病院に運ばれたが衛生兵も消息不明となり、その後の行方も知れず、生きて帰ることはなかった。
その頃は情報も錯綜しており、「米軍が攻めてくる」と言っては、名護市からさらに数キロ山側に入った「ナジャト山」へとさらに分け入った。「乳飲み子の鳴き声が敵に聞こえてはいけない」と、赤ん坊の口に布きれを突っ込む母親もいた。「敵兵にいつ見つかるかもしれない」と飯を炊くにも煙が立っているのが分かりにくい夕方暗くになってから。
「一日の時間が何と長かったことか」―。
高良さんたちは、米軍の攻撃音も止んだ夕方頃に名護市へと密かに戻り、翌早朝には山に避難する生活を繰り返した。避難していた場所からは、米軍基地が見えた。基地には小さな三角テントが張り巡らされ、前側には土嚢(どのう)が積み重ねられ、機関銃を構えた米兵が常に見張りについていた。夜になると照明弾が打ち上げられ、日本軍からの攻撃に備えていたようだ。
高良さんたち一般庶民が最も恐れていたのが、「トンボ」と言われた米軍の軽量爆撃機。「トンボの姿が見えたかと思うと、雨、アラレのように弾が落ちてくる。恐ろしい飛行機だった」。
高良さんは戦後、10歳から20歳までを父親の実兄である正次(まさつぐ)さん(故人)家族の世話になり、55年6月、正次さんの次男・幸太郎氏と2人で「チサダネ丸」で渡伯している。「伯父には自分の父親のように育ててもらいました」と高良さん。戦争で両親を失い、正次さん家族だけが頼りだった。
正次さんは戦争当時、読谷(よみたん)基地の部隊に所属。45年4月、米軍の激しい攻撃に見まわれ、同じ部隊の戦友が負傷した。正次さんは名護市の避難場所に付き添いとして同行し、高良さんたちとも会うことができ、家族は互いの無事を喜びあった。2日後には部隊に帰る予定だったが、名護市に米軍が上陸して戻れなくなった。
同年8月15日に終戦を迎えたが、知る由もなかった。米軍の「トンボ」機からはビラがまかれ、そこには「もう戦争は終った。明日午前10時までに大通りに出なさい」と記されていたという。しかし、それを信じる者はいなかった。翌日、米兵が避難所を取り巻き、逃げる場所もなく捕虜となり、羽地(はねじ)の収容所へと連行された。
収容所では、成年男子だけ別離され、正次さんは「カンパン」と呼ばれる特別収容所に入れられた。高良さんたちは羽地の収容所が満員のため、同地から約3キロ離れた呉我(ごが)に民家を利用した収容所に移された。
約2週間経った後、高良さんは羽地に収容されている友人に会うために1人で同地に向かった。朝から出かけて歩き疲れ、午後4時頃に「カンパン」付近を通った時、金網越しに正次さんの姿を見つけた。正次さんも高良さんに気が付き、大きな声で「皆、元気か」と手を握り締め、涙ぐみながら話したという。
「捕虜生活をしている男たちの背中には『PW』という文字が書かれていたのを覚えています。帰りは米、カンヅメ、ビスケットなどの食糧をもらい、皆で喜びました。恐かったのは小銃を肩にかけた米兵でしたが、収容所を出る時には私の頭を撫でてくれ、チューインガムとタバコをくれました」と高良さんは米兵の以外な態度に戸惑ったが、子供ながらに戦争が終結したことを実感した。
その後、釈放された正次さんと家族の世話になりながら、故郷の小禄に戻った高良さんは20歳まで同地で過し、戦後の不況の中でブラジルに渡る決意をする。
「とにかく、戦争は恐ろしいものだった」と高良さん。戦後70年という年月が経ち、当時のことを知る人々が年々減少する中、自らの体験を伝えていく必要性を実感している。(2015年1月号掲載)
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