小山拓雄さん (2023/12/06)
整形科医としてパラー州ベレン市内に自身の診療所を開業する傍ら、汎アマゾニア日伯協会の傘下団体で同協会会館に隣接するベレン日系協会の会長を務めて7年目になる小山拓雄(こやま・たくお)さん(72、長野)。現在、診療所は息子と一緒に開業しているため、週に3回は好きなゴルフを行うなど、充実した日々を送っている。 小山家族は、父母、3人の兄と妹が1954年6月「あめりか丸」で渡伯。拓雄さんは12歳だった当時、目の病気「角膜炎」を半年ほど患っており、一人だけ長野市に住む母方の弟(叔父)のもとに取り残された。しかし、治療を行った眼科医が「ブラジルにも眼科もあるだろうし、ブラジルに行ったほうがいい」と判断し、同年7月に「あふりか丸」に乗船し、家族と再会することができた。しかし、角膜炎の後遺症があり、拓雄さんは今でも左目がかすむという。 父親の啓一郎(けいいちろう)さんは(73年に69歳で死去)キリスト教のプロテスタントの牧師で、神学校時代のクラスメートから「アマゾンには牧師がいない」と聞き及び、戦前に南米に行くことが決まっていたという。しかし、東京で宣教活動を行い、3カ月に1回実家の長野県に帰ってくる生活をしていた啓一郎さんは病気になり、戦前にブラジルに渡る機会を失った。 戦後再開とともに渡伯し、パラー州トメアスーに入植した小山家族は、母親の富士野(ふじの)さん(故人)や兄たちがピメンタ栽培を行い、父親も農業生産の傍ら宣教活動のために各家庭を訪問していた。その「かばん持ち」として拓雄さんも一緒に歩いた。 拓雄さんが医者になるきっかけとなったのは、次兄が心臓が悪く、4年間の寝たきり生活の中で何度も死にかけたことだった。当時のトメアスーは、ベレンから内科の医者が訪問するのが1カ月に1、2回程度。母親は「なぜブラジルに来たのかと後悔し、陰で泣いていました」と拓雄さんは、家族のどうしようもない状態を目の当たりにしていた。 母親から「医者になってほしい」と言われた拓雄さんは、ある程度体が回復した次兄とともにサンパウロに出た。19歳で夜間の高校に通いながら昼間は南米銀行でアルバイトとして働いた。当時、サンパウロの医科大学はサンパウロ総合大学とパウリスタ医科大学の二つしかなく、競争率が激しかった。拓雄さんは数学は得意だったが、理科や歴史は苦手だった。23歳でベレンに戻って塾に通って勉強した結果、24歳の時にパラー連邦大学にストレートで合格、30歳で卒業した。 その後、2年間リオ市で国立大学の研修員として過ごした後、34歳で大学の助手の試験に受かり、パラー連邦医科大学医学部准教授として33年間勤務。その間、長男(整形外科医)、次男(眼科医)も生徒として教えたという。 リオでの研修員時代に父親が胃がんを患い、日本で治療したが、医者からは「もう手遅れ」と言われた。その間、丸山ワクチンの生みの親である丸山千里博士(故人)に会うためリオから電話すると、丸山博士からは「いつもで来てくれ」と温かい言葉をかけられて拓雄さん自身も訪日し、「1時間ぐらいでしたが親切に教えていただき、研究も見せていただいた」経験もある。 父親からブラジルに来た経緯を聞いたのは、啓一郎さんが術後に日本から戻りベレンで過ごしていた最期の時だった。「なぜ、自分たちをブラジルに連れてきたか」との拓雄さんの問いに啓一郎さんは、「子供たちの将来のことを考えていた」と答えたという。 「父親は厳しい人でしたが、保守的な変わり者でしたね。酒も飲まず、テレビや映画も見ない。人生の楽しみは本だったようで、宗教や歴史の本をたくさん読んでいました」 学生のころからスポーツが好きで、卓球や野球などをやってきた拓雄さんは、趣味のゴルフを楽しみながらもベレン日系協会会長としての役目を全うしている。 「今まで皆さんに支えられた歩いて来た借りがある。残りの人生はその借りを少しずつでも返していきたい」と拓雄さんは、アマゾンで生きてきた自らの人生を振り返り、今も恩返しの活動を続けている。(2015年2月号掲載)
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