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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
田邉治喜さん [画像を表示]

田邉治喜さん (2023/12/13)
2015年3月号田邉治喜さん(錦鯉).JPG
 「泳ぐ宝石」と称される錦鯉を中心に、熱帯魚など観賞用魚類の養殖販売業を親子2代にわたって続けている日系家族がいる。サンパウロ近郊スザノ市に在住する田邉治喜(たなべ・はるき)さん(67、福岡県出身)と直喜(なおき)さん(33、2世)父子は、休日の無い多忙な日々を送りながらも、家族の協力を得て互いに「好きな道」での活動に邁進(まいしん)している。
 治喜さんが家族とともに渡伯したのは1962年。14歳の時だった。サンパウロ州アラサツーバに入植後、ジュキチーバを経てスザノに転住したのが、19歳。父親の直助(なおすけ)さん(2000年に82歳で死去)を手伝い野菜作りなどをしていたが、「勉強して知識を身につけたい」とカンピーナス大学機械科に入学。「幼い時から魚が好きだった」という治喜さんは、大学3年生のころに趣味で熱帯魚を飼い始めたのが、現在の錦鯉養殖のきっかけだ。
 大学卒業後は地元の日系進出企業に勤めたが、中間管理職として悩み、日本への研修員引率中にスザノで発生した部下の事故死の責任を取らされたことなどで会社への不満も高まっていた。そうしたころ、知人のブラジル愛鱗(あいりん)会関係者から「錦鯉を本格的にやってみないか」と言われたことが、治喜さんの人生を変えた。会社を辞め、自分の好きな道に進むことを選択した。
 現在、治喜さんは、錦鯉を中心に熱帯魚や金魚などの養魚を販売している。「毛仔(けご)」と呼ばれる産卵から1週間か10日ほどの錦鯉の稚魚を購入し、それをモジ・ダス・クルーゼス市にあるパートナーの養殖業者に無料で譲渡。3カ月経った「第1次選別」の際に、優良の錦鯉を田邉さんが優先的に選別できるシステムを構築している。
 「錦鯉の大量飼育をしても、その中から選ばないと数が取れません。自分の家に大きな池を持っていないから、他の人に稚魚の養殖を任せて、その後に買った方が良い鯉が大量にできます。それが分かるまで20年かかりましたけどね」と治喜さん。錦鯉養殖の魅力は色彩が豊かで迫力があることだという。
 リスクもある。池一面の錦鯉を病気などで全部死なせてしまう可能性も含んでいる。「死んだり、病気になると意欲がなくなります。好きでないと、できない仕事ですよ」と治喜さんは表情を引き締める。
 また家族の協力を得ないと、できない仕事でもある。「(錦鯉などが)病気になった時は子どもたちにも手伝わせ、注射を打ってもらったりもします。量が多いので、一人ではできない作業ですから」(治喜さん)とも。 
 幸い、長男の直喜さんが10年ほど前から協働してくれるようになった。直喜さんは、大学の動物技術学科を卒業後、本格的に錦鯉の養殖作業を行うようになった。
 「子どものころから土、日曜にはいつも店に出て、手伝いをしていましたし、自然にこの仕事が好きになりました。錦鯉は特に、大きく成長した時にどんな色合いが出てくるのかを見るのが楽しみですね」と直喜さんは笑顔を見せる。
 「一緒に住んで、子どもたちに手伝ってもらっていたことが良かったんじゃないでしょうか」と治喜さんは、仕事仲間としての長男の成長を錦鯉ともども頼もしく見つめている。
 田邉さんは2012年5月に開催され、(社)全日本愛鱗会の公認審査員も来伯参加した第31回ブラジル錦鯉品評会で、65部で「大正三色」を出品して総合優勝した経験もある。その時の錦鯉は、13年ほど前にブラジル錦鯉愛好会会長などを歴任した尾上久一(おのうえ・ひさいち)氏(故人)の孫が、尾上氏の誕生祝いにと田邉さんを通じてプレゼント用に贈ったもので、当時は30センチほどだったという。4年ほど前に諸事情により、サンパウロ市にあった尾上氏の池が取り壊された際、遺族から「形見分け」として譲り受けていた。
 思い入れのある錦鯉はその後、顧客でもあるブラジル人の友人の還暦祝いにプレゼントしたという。「錦鯉の価値が分かる人に持っていてほしいというのが、正直な気持ちですね」と田邉さんは思いを語りつつ、現在も日々、養殖販売業の活動を続けている。(2015年3月号掲載)


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松本浩治 :  
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