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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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福井弘一さん (2024/01/16)
2015年7月号福井弘一さん.JPG
 1955年に渡伯し、実業家の故・山縣勇三郎(やまがた・ゆうざぶろう)氏(長崎)が戦前にリオ州サンペドロ・ダ・アルデイアに購入した「モソロ塩田」で働いた経験を持つ同州サンゴンサーロ市在住の福井弘一(ふくい・こういち)さん(85、長崎)。当時、日本人労働者として唯一、過酷な塩田作業を5年半にもわたって勤め上げ、勇三郎氏の3男でブラジルのテニス界にも貢献した日系実業家・富士男(ふじお)氏(故人)からその胆力と人柄を見込まれ、60年間にわたって山縣氏のグループ会社に貢献してきた。現在も週に3回は地元の関連会社事務所に顔を出している。
 現在の長崎県平戸市から約10キロ離れた「大島」で7人弟妹の長男として生まれ育った福井さんは、母親の里が漁師の網元だったため自然に子供のころから漁師作業を手伝い、その合い間に農作業も行っていた。
 戦後の食糧難などで海外に出たいとの思いに駆られていた54年当時、母親の恩人で「千浦節(ちうら・みさお)」という日本人が東京で「南米移住旅行社」を経営しており、同年10月に東京まで会いに行った。千浦氏は南米銀行創立者の宮坂国人(みやさか・くにと)氏らと知り合いだったことから、「宮坂さんに頼んでみるから、俺に任せておけ」という同氏の一言でブラジルに行くことが決定。神戸日伯協会の「第1回単独青年」として、当時25歳の時に他の3人とともに渡伯することになった。  
 54年12月21日、「ぶらじる丸」で神戸港を出港した福井さんは、翌55年2月4日にサントス港に上陸。サンパウロで宮坂氏を紹介されて会った後、2日後にはバスで単身リオに向かい、その翌日にはモソロ塩田があるサンペドロ・ダ・アルデイアに連れて行かれた。
 塩田は700町歩もある広大な土地。水深が低く隣接する内海の水を、塩田の段差と東方面から吹く自然の風を利用し、11月から2月までの夏場の時期に主に製塩作業が行われていた。福井さんが塩田に入ったのは、2月の繁忙期。黒人系ブラジル人が大半を占める計約50人の労働者の中で、唯一の日本人として作業を行うことになった。住む場所は、塩田敷地内にあった「広田(ひろた)」という名前の戦前移民の支配人宅の空き部屋を借り受けたが、当初は水道もなく電気も通っていない生活だった。そのため、敷地内各所に溜められた雨水を飲料水として、そのまま飲んで過ごしていたという。
 仕事は午前7時から始まり、午前11時に昼食、午後4時に終了する8時間労働。天日により干上がって出来上がる塩の結晶を「トンボ」のような道具でかき集め、塩田の端に山積みにしていく製塩作業だが、日によって「立っていられない」ほどの強風が吹きつけたという。また、作業中は灼熱の太陽が真上から照りつける。と同時に下からも塩田の反射で暑さが猛烈に増す上、全く日陰がなく座る場所もない立ち仕事だった。初日は長靴を履いて作業を行ったが、塩田に入るとすぐに熱くなって使い物にならない。下駄を履いても、内海から流れ出た貝殻の破片や塩の結晶が鼻緒(はなお)などに食い込み、結局は裸足で作業を行うしかない。しかし、あまりの塩田の熱さで足の裏が火傷状態になり、慣れるまではとても仕事どころではなかった。
 「熱さと塩の結晶の尖(とが)り で足の裏は傷だらけになり、塩水に浸かるから沁みて痛くて仕方がない。手は(トンボで)マメができて当初は顔も洗えない状態でした。幼い頃から漁業の手伝いをしていたので体力には自信がありましたが、『えらい所に来た』と思いましたよ」と当時を振り返る福井さん。子供の頃から塩田で鍛えている労働者に見下されても、自分で「海外に行きたい」と千浦氏たちに世話になりながらブラジルに来た以上、今さら日本に帰るどころか右も左も分からないブラジルでは他に行く所もない、と何とか耐えしのいだ。
 モソロ塩田での労働も5年が過ぎた60年代初頭、富士男氏たちから現在の夫人である真澄(ますみ)さん(85、2世)を紹介され、31歳で結婚。リオ州サンゴンサーロ市の現在の土地に家を建てた。それまでの塩田の仕事から解放され、山縣グループの事務所で働くことになったが、「(塩田での)裸足の生活に慣れていたので、最初は靴を履くとマメができて大変だった」と福井さんは苦笑する。
 その後、3人の子宝に恵まれ、山縣グループの土木建築関連の仕事で「橋を架けたり、道を造ったり、上下水道の鉄管を敷設したり」の現場作業を担当。リオ州をはじめ、サンパウロ、ビトリア、ブラジリア等全国を飛び回った。
 福井さんが従事したモソロ塩田は現在使われておらず放置されたままで、その広大な土地は湿地帯であることから建物の分譲もできない。今も山縣グループが所有しているものの、当時の面影を残しながらも寂れた状態となっている。
 数年ぶりにモソロ塩田を訪問した福井さんは、「早いですね。60年なんてあっという間ですよ」と感慨深げな様子で、今は誰もいない塩田に見入っていた。(2015年7月号掲載)


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松本浩治 :  
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