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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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黒田喜与美さん (2024/01/29)
2015年9月号黒田喜与美さん.JPG
 「子供や孫たちから『じいちゃん』『じいちゃん』と呼ばれて幸せだったと思います」―。1954年7月、当時のグァポレ連邦直轄州(現・ロンドニア州)ポルト・ベーリョ市から約15キロ離れたバテ・エスタカ地区に29家族180人が入植してから、昨年(2014年)で60年の節目の年を迎えたトレゼ・デ・セッテンブロ(9月13日)植民地。同植民地で農業生産活動を行った後、ポルト・ベーリョ市内で78年から約30年間マッサージ・鍼灸治療を行っていた夫の黒田重人(しげと)さんを2013年3月に亡くした(享年90歳)黒田喜与美(くろだ・きよみ)さん(75、東京、旧姓・服部)は、重人さんの後妻として17歳で結婚した。
 重人さんは台湾の花蓮(かれん)という町で生まれ、1930年8歳の時に北海道に転住。17歳の時には当時の満州国濱江(ひんこう)省阿城(あじょう)県の「八紘(はっこう)開拓団」に移住し、農業を営んだ。その後、21歳でハルピン第5独立守備隊に入隊。44年4月から南方作戦に参加し、ニューギニアで終戦を迎えた貴重な体験をした。戦後は熊本県球磨(くま)郡の開拓団に入植し、54年に渡伯してトレゼ・デ・セッテンブロ植民地に入植したというから、生涯を懸けて農業開拓に闘志を燃やした人物だった。
 重人さんは、妻ミツヨさんらと家族7人で渡伯したが、翌年の55年11月にミツヨさんが亡くなった。当時、重人さんには既に子供が3人おり、同じ移住者の服部重五郎(じゅうごろう)氏の次女である喜与美さんを後妻として迎えた。
 しかし、喜与美さんは当時まだ17歳。重人さんとは17歳も年の差があり、父親から反対の声もあった。しかし「(ミツヨさんが残した)3人の子供のことが可愛そうで」、当時は恋愛感情もないまま生活のために重人さんと一緒になったという。
 喜与美さん自身も生みの母親は幼いころに肺炎で亡くなっており、継母のタネさん(2015年5月に93歳で死去)が喜与美さんたちを育てた。だが、タネさんは子供たちには当時、そうした話は何も言わなかったそうだ。父親の重五郎氏は満州鉄道で働いていたこともあり、喜与美さんも満州で生まれている。
 しかし、東京の都会育ちの喜与美さんにとって、夫と子供の面倒をみながら慣れない植民地の生活を行うのは並大抵のことではなかった。永年作物のゴム栽培では生活が成り立たず、野菜生産や養鶏などを行っていたが、夜中に起きて野菜の苗を作り、朝は一番で鶏の水を取り替える作業が待っていた。「鶏卵は毎日4~5回取っていたし、鶏のエサを作るのにミーリョ(トウモロコシ)を1トン、夫と一緒に混ぜたり、やることはいくらでもあった」と喜与美さん。「そのころは若かったし体力もあったので、少々寝なくても大丈夫だったけれど、今から思うと、もう忘れたいよ」と本音を語る。
 「百姓一本の男だった」(喜与美さん)重人さんは78年、鍼灸整体治療を行うようになり、ポルト・ベーリョ市内に治療院を開設。植民地では肉牛などの牧畜も行い、後年は家族が土地を管理するようになった。
 重人さんは山で猟を行うことが好きで、植民地時代は猪やアリクイなどを獲ったり、町に出てからも船を買って釣りに行ったりしていたという。喜与美さんの方は2005年頃1から一人で社交ダンスに通うなど、夫婦それぞれに人生を楽しんできた。
 重人さんが亡くなる1週間前、喜与美さんは重人さんの枕元に呼ばれて「自分は幸せだった。ありがとう」と感謝の言葉を受けたという。
 「じいちゃん(重人さん)と一緒になったころは、泣きたい時も家出したい時もありました。しかし、何だかんだ言っても、じいちゃんがいたから今の私がある」と喜与美さんは、生前の重人さんを偲びながら毎日の祈りを欠かさない。
 重人さんが始めた鍼灸整体治療院は孫娘が引き継いでおり、ポルト・ベーリョ市内では有名になっている。現在、喜与美さんは洗濯など家族の手伝いをしながら毎日を過ごしている。(2015年9月号掲載)


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松本浩治 :  
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