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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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蛸井喜作さん (2024/02/05)
2015年10月号蛸井喜作さん.JPG
 「僕の人生は波瀾(はらん)万丈ですよ」―。1957年6月、コチア青年移民第1次9回生として「ぶらじる丸」で着伯した蛸井喜作(たこい・きさく)さん(79、山形県出身)は自らの人生を振り返って、そう語る。
 実家は、庄内平野で米を生産。少年時代から農業を手伝わされた。地元・鶴岡工業高校の夜間部に通っていた蛸井さんは、修学旅行で関東・関西方面に行った際、企業への工場見学で「一生を同じ工場の中で働きたくない」との思いを強く感じたという。
 卒業後、地元で運転手兼営業マンとしてミシン会社に入ったが、冬場は雪で車を運転しにくいことから方向転換を考えていた。そうした矢先、山形新聞に掲載されていた「コチア青年」の応募が目を引いた。
 叔父が満州移民の経験があり、その辛さを伝え聞いていた両親は蛸井さんのブラジル行きには反対だった。しかし、蛸井さんの意志は固く、20歳で海を渡った。サントス到着後、モイニョ・ベーリョ研修所を経て、リオ州サンタ・クルス移住地に入植した。パトロンは故・須藤りきおさん。「パトロンは良くしてくれたが、先輩のコチア青年と思うようにいかなかった」として、2カ月後には須藤さんの弟・進さんの世話により、コチア産業組合リオ出張所を経て、同州ノーバ・イグアスーへと移った。
 この時から蛸井さんの「放浪生活」は始まった。放浪と言っても、闇雲に土地を移っていったわけではなく、常に前向きな「野心」を持って進んだ。ノーバ・イグアスーで1年過ごした後、サンパウロ、ソコーロ(サンパウロ州)、ベッチン(ミナス・ジェライス州)、クルベイロ(ミナス・ジェライス州)、パンタナール(マット・グロッソ州)、カストロ(パラナ州)、イタペーバ(サンパウロ州)、サンミゲル・アルカンジョ(サンパウロ州)などと10年間で、実に10カ所以上の土地を渡り歩いている。その間、トマト、キュウリなどの野菜作りから米、バタタ(ジャガイモ)、牧畜など一貫して農業に携わってきた。
 67年には当時のブラジル政府の「所得税免税措置」を利用してイタペーバでブラジル人との共同出資により、植林事業を始めて大成功。70年、大阪万国博覧会開催の年に、渡伯14年目にして祖国の土を踏んだ。34歳になっていた。
 日本の同級生たちの大半が所帯を持っていることに焦りを感じた蛸井さんは、帰伯後すぐの71年、サンパウロ州サンミゲル・アルカンジョの日系2世・マリア夫人(95年に死去)と結婚、男子2人を授かった。現在、長男は農業大学を卒業して3児の父親となり、測量技師として働いている。次男は法科大学を出て弁護士となっている。
 この頃、人生の一大転機が訪れた。パラナ州にいた森という人物が所有するダンボール(パペロン)会社から植林の依頼が来て、ダンボール会社の植林会社を共同経営で設立した。共同経営者は、リベルダーデ区ガルボン・ブエノ街に映画館「シネ・ニテロイ」を設立した故・田中義数(たなか・よしかず)氏が社長、パラナ州の重鎮だった故・宮本邦弘(みやもと・くにひろ)氏が重役、依頼者の森氏という錚々(そうそう)たるメンバーで、蛸井さんはその4人のうちの1人として加わった。
 「単に雇われるだけじゃあ、意味がない」と蛸井さんは共同経営者として同じ持ち株を所有。つまり、対等の条件を提示し、会社側はこの条件を呑んで迎え入れた。「宮本さんには『僕と同じ株をくれ、なんて言うコチア青年の顔が見たい』と言われましたよ」と蛸井さんは当時を思い出して笑う。
 その後も蛸井さんの挑戦は停まるところを知らない。74年頃、共同経営者の考え方に合わず、植林会社を出て家族でカンポ・グランデに移転。アマゾナス州のラブリヤ市に2800ヘクタールの土地を購入し、自然ゴムの樹液採取を目的としてブラジル銀行から莫大な融資を受けた。年利5%、修正価値無しの融資だったために、5年で返済することができた。
 82年には植林会社に専務理事の肩書きで戻り、会社の資金でマラニョン州に1万6000ヘクタールの土地を購入。紙原料となるユーカリと換金作物となるカシューナッツを植えた。個人的にブラジルの7つの州に土地を所有し、5つの州にある農場を2カ月おきに回っていた時期もあるという。
 86年にはバイア州バレイラスのセラード開発、コチア青年団地に37家族と一緒に、共同ではなく個人で入植した。しかし、3年間で20万ドルという莫大な借金を背負うことに。89年には、入植者の中で最も早く撤退した。
 「将来性はあったが、あのままではダメだと思った」。しかし、その後も挫けることなくイタペーバの植林会社を継続。現在もマラニョン州に個人で土地を所有しており、3カ月に1回は同地に足を運んでいる。
 2006年には、コチア青年連絡協議会で事務局に勤めていた惠子(けいこ)さんと再婚。2人で各地を巡るなど充実した日々を送っている。
 蛸井さんは今も、豆腐用に一次加工した大豆をブラジルから日本に輸出することを実現させるために3、4年ほど前から日本側と交渉しており、「コチア青年」としての思いを持ち続けている。(2015年10月号掲載)


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松本浩治 :  
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