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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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箭内和喜さん (2024/02/12)
2015年11月号箭内和喜さん.JPG
 2015年9月6日に入植100周年を記念した慰霊法要と式典を開催したアグア・リンパ植民地。サンパウロ州アラサツーバ市から16キロ離れた同植民地は、1920年代~30年代の全盛時代には約300家族の日本人入植者たちで賑わったというが、現在はわずかに日系6家族のみとなっている。
 現在はアラサツーバ市内に住み、同地での数少ない戦前移民である箭内和喜(やない・かずき)さん(87、福島)は1941年、13歳の時に父母と弟の4人家族で「あらびあ丸」で渡伯した。福島県で農業生産活動を行っていた父親の安喜(やすき)さんは、同じ福島県出身の実業家だった故・安瀬盛次(あんぜ・もりじ)氏と従兄弟の関係だったことから、当時アグア・リンパ植民地にあった安瀬氏の農場に呼び寄せられたという。
 「安瀬さんは、皇紀2600年(1940年)を記念して日本政府から招待されて日本を訪問し、その帰りに我々の家族は安瀬さんと一緒にブラジルに来たんですよ」と和喜さんは当時の経緯を説明する。
 和喜さんはブラジルに来る直前まで千葉県にあった海軍基地の少年航空隊に約2カ月入隊しており、ブラジルに家族で行こうとする父親の提案を当初は断ったという。
 しかし、父親の安喜さんから「我々がブラジルに行くことも日本の国のためになるのだから、一緒に行ってくれ」と説得され、仕方なく従って海を渡ってきた。その一方で姉のハナさん(当時20歳)は、祖父母の面倒を見るために姉弟の中で一人日本に残り、生き別れになってしまった。
 ブラジルに渡った箭内家族は、アグア・リンパ植民地内の「安瀬耕地」でカフェ生産を行うなど4年間の義務農年を果たし、その後は安瀬氏の許可を得て同植民地内に14アルケール(約34ヘクタール)の土地を購入した。
 和喜さんも入植当初はカフェ農園で家族の手伝いをし、エンシャーダ(鍬)を引いたが、「ブラジルに来たころは父母に何度も日本に帰ろうと、泣きながら訴えました。(千葉県の)少年航空隊では厳しい訓練を受けましたが、それでも日本が恋しかった」と当時の率直な思いを振り返る。しかし、家族で地球の反対側まで来た以上、日本に帰ることもかなわず、そのまま「安瀬耕地」に留まらざるを得なかった。
 和喜さんは、家族が14アルケールの土地を購入したころに、「安瀬耕地」内にあった雑貨店の従業員として働くことになった。雑貨店では、農業関連商品をはじめ、衣類や日用品などを販売し、集金作業も行った。
 雑貨店で17年間働き、そのころには支配人になっていた和喜さんは、安瀬盛次氏の弟・馬男(うまお)さんの長女に当たる清子(きよこ)さん(82、2世)と愛し合うようになり、結婚。植民地からアラサツーバの町に出て独立し、自身の雑貨商を開店した。当時の日系社会では、結婚は親同士の勧めによる「見合い」がほとんどだったが、和喜さんと清子さんは当時では珍しい恋愛結婚だったという。
 「今の時代では何でもないことでしょうが、恋愛していた当時は家内と隠れて会っていました」と和喜さん。少年時代に日本を離れて郷愁の思いを持ち続けてきたが、清子さんに出会い家庭を持ったことで癒されたようだ。
 アラサツーバでは、雑貨商の仕事の合い間にアラサツーバ日伯文化協会の役員として日本語書記を長年にわたって務め、現在も相談役ながら「漢字が書ける数少ない1世」として2世役員たちから頼りにされている。入植100周年記念行事でアグア・リンパ植民地内会館横に建立された新慰霊塔の揮毫(きごう)も、和喜さんが書いたものだ。
 「1960年代にアラサツーバの町に出ましたが、そのころは『日本人の町』と言っても過言ではないほど日本人ばかりでした。今でも(アラサツーバでは)800家族の日系家族がいますが、遠い昔のことを知っている人が少なくなりました」と和喜さんは、時代の流れを感じている。
 生前の安瀬盛次氏について和喜さんに尋ねたところ、「名士だったので公共の事業などには尽くした人でしたが、家庭では必ずしも幸せではなかったかと思います」との答えが返ってきた。(2015年11月号掲載)     


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松本浩治 :  
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