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マツモトコージ苑
     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
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小島ナカさん (2024/03/25)
2016年5月号小島ナカさん(ミナス).JPG
 「ベロ・オリゾンテに来た当初は醤油(しょうゆ)が無くて、代わりにトマトの汁を煮立てて使っていたよ」―。こう語るのは、ミナスジェライス州の州都ベロ・オリゾンテ市に在住する小島ナカさん(93、岩手県出身)。ブラジルにわたって2007年で81年目になるという。
 ナカさんの父親、故・高橋末吉(たかはし・すえきち)さん(青森県出身)は、若い頃から北米に行く夢を持っていたらしく、ナカさんがまだ13歳の女学生だった頃に渡伯を決心した。
 当初、ナカさんはブラジルに行くことを知らされておらず、「東京に行く」とだけ聞いていた。3番目の兄と先に東京に行かされ、その後1週間経って東京で合流した父親と弟から「今度は神戸に行く」と言われ、その時点でナカさんは家族でブラジルに行くことを初めて聞かされた。
 当時、神戸にはまだ移民収容所(1928年に設立)はできておらず、ペンションに泊まりながら渡航前の書類づくりや予防注射などを行った。
 「予防注射は背中に打たれるんだけど、大人も痛がるほどで、本当に嫌だったね」とナカさんは、家族に「騙(だま)された」との思いと、日本を離れたくないという考えから、本心ではブラジル行く気持ちは無かったという。
 本来、母親も同行するはずだったが、目の病気であるトラコーマに罹っていたためにブラジル行きは許されなかった。結局、母親とはその時に生き別れとなり、日本には母親、弟、妹の3人が残された。
 「後で呼び寄せる考えも父親にはあったようだけど、戦争のために母親たちはブラジルに来ることができなかった」とナカさんは、自分の意志ではどうにも出来なかった運命の別れを今も悔しく思っている。
 1926年に「さんとす丸」でブラジルに渡ってすぐに、モジアナ線の「イガサーバ」と呼ばれるカフェ農園に配耕された。同地で1年間の契約義務を果たした後、リファイナ、三角ミナスのウベラーバでの米作りを経て、6年目には現在のベロ・オリゾンテに移転。ベンダ・ノーバ地区に農場を購入し、農業生産活動を続けた。
 夫の小島長太郎(ちょうたろう)さん(2006年3月に死去)は1931年、「さんとす丸」で単身渡伯。サンパウロ近郊で現在のエンブーにあったエメボイ実習場(サンパウロ農事実習場)で野菜づくりなどをしていたという。エメボイの第3期卒業生として実習生活を終え、ベロ・オリゾンテに来ていた長太郎さんをナカさんの父親が見込み、「見合いもさせずに」(ナカさん)結婚させた。
 結婚後は、労働者を雇ってトマト、コウベマンテーガ、エスピナーフレ(ほうれん草)などの野菜類を主に生産し、ナカさんも家事の合間に農業生産を手伝っていた。
 当時、ナカさんの兄がベロ・オリゾンテの中央市場で働いていたこともあり、生産したトマトなどを市場に送って販売。少しずつ生活も向上した。
 「その頃、兄が鯉を飼っており、お客さんが来ると振舞っていたけれど、肝心の醤油が手に入らなかった。仕方なく、トマトの汁を黒くなるまで煮立てて、それを醤油代わりに出していたね」とナカさんは当時のことを今も鮮明に覚えていた。異国の地で、日本の味に少しでも近づけたいとの初期移民の切ない思いが、トマトで醤油を作るという工夫につなげたのだろう。
 ナカさんはその後、「飛行機に乗るのが恐い」ことから一度も故郷の土は踏んでいない。
 「母親とは手紙でやりとりしていたが、結局は会えなかった」とナカさん。現在も坂の多い街ベロ・オリゾンテでニンニクの皮むきや洗濯物の折りたたみを行うなど、高齢になりながらも家事手伝いを続けている。(2016年5月号掲載) 


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松本浩治 :  
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