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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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川頭万里子さん (2024/04/15)
2016年8月号川頭万里子さん.JPG
 「算術と(日本語の)読み書きが得意でした」―。サンパウロ州バストス市に在住し、同地の第1小学校卒業生である川頭万里子(かわず・まりこ)さん(92、長崎県出身、旧姓・織田(おだ))は、机に広げた当時の成績表を見せながら目を細めた。その言葉通り、尋常科2年生の時の通信簿には「甲」の文字がズラリと並ぶ。
 1928年9月、父母や祖父母ら構成家族7人の一人として5歳で渡伯し、ノロエステ線の平野植民地に入植。29年には家族で現在のバストスに移転した。
 当時のバストスには、まだ第1小学校の校舎はできておらず、それまでの1年間、万里子さんは「収容所の長屋の端の方にあった」という日本語教室に通った。
 翌30年、日本政府の資金援助を得て、第1小学校の新校舎が完成。一クラス約30人で男女共学だったが、教室の席は男女別に分けられていた。尋常科6年、高等科2年の計8年間を同校で過ごした万里子さんは、地元のブラジル小学校「グルッポ」第1期生として4年間通い、バストス市長だった故・西徹(にし・とおる)氏らとともに36年に卒業している。
 卒業後は進学も考えたが、戦時色が濃くなる中、日本語教育が禁止されだした。そのため、万里子さんは「勉強しないで編み物を習ったり、その頃は女子青年団もできていたので、慰問袋をこしらえては日本の兵隊さんに手紙を付けて送り、返事をもらったりしてました」と当時を振り返る。
 バストス市内のウニオン区で養蚕の仕事を手伝っていた万里子さんは21歳の時、単独の呼び寄せとして同地に入植していた川頭真(まこと)さん(佐賀県出身)と結婚。「働き手がほしかった」ため、万里子さんの家に入ってもらう形となった。
 万里子さんの話では、真さんは本当の名前は「直(すなお)」だったが、佐賀県の役所が戸籍を書き間違えたため、「真(まこと)」と登録されたという。
 「主人は働き者の上に、無口でおとなしい人でした。うちの母はよく『すなおさん』と呼んでいました」
 戦後すぐの48年、親戚を頼ってバストスから約80キロ離れたパラグアスー・パウリスタに移転。肉屋の仕事に従事して独立し、67年までの約20年間を同地で過ごした。
 「映画も見たことが無かった」(万里子さん)暮らしぶりだったが、楽しみもあった。「バストスで開かれる野球大会に応援に行ったりしましたが、カミヨン(トラック)に幌(ほろ)を被せて皆で乗っていくんです。途中でフィスカル(取締官)が待ってるので、頭を隠したりしてね」
 しかし、パラグアスー・パウリスタでの生活も経済的に苦しくなり、バストス連合日本人会長やブラ拓製糸会社専務などを歴任した故・谷口章(たにぐち・あきら)氏たちの世話で、「故郷の地」に戻ることに。真さんはブラ拓の木工部で大工として定年退職するまで勤め上げ、万里子さんも食堂部で16年間働いた。
 「寄宿舎があって、その頃はグァタパラから7、8人の娘さんが来ていました。当時の女工さんはほとんどが日系人で、私ら家族もバストスに戻って数年は寄宿生活をしていたし、いつも大きな鍋に御飯を炊いたり、大変だったけど賑やかだったですね」と万里子さんは、活気溢れる時代を無我夢中で生きてきた。
 毎年7月はバストス恒例の「卵祭り」の時期。サンパウロ市など都市部に出ていった子供たちが一堂に集まり、バストスにある墓地で家族で墓参りを行う万里子さんの姿があった。
 「最近は、見る影も無くなって寂しい限りです」
 バストスの古き良き時代を知る一人として万里子さんは、当時を懐かしんだ。(2016年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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