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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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井野一彦さん (2024/04/22)
2016年9月号井野一彦さん.JPG
 今年(2016年)3月20日に入植85周年を迎えたスザノ福博村会の会長を1992年から93年、96年から97年までの2期4年間務め、現在、スザノ市で唯一の養鶏業を大規模で行っている井野一(いの・かずひこ)さん(73、茨城)。戦後移民として1960年に渡伯入植し、堅実な考え方で同村会を見守っている一人だ。かつては「養鶏村」と言われた福博村だが、病気や景気の影響などで養鶏を止める人が相次いだ。そうした中、入植当時から現在まで一貫して家族ぐるみで養鶏業を続けており、日本で受けた基礎教育が井野さんのバックボーンになっている。
 百里(ひゃくり)飛行場(現・茨城空港)がある茨城県東茨城郡小川町(現・小美玉市)で育った井野さんは、父親がパチンコ店を経営していたが、当時高校生ながらも将来の人生を懸念し、海外に出たいとの気持ちが強かったという。
 父親に相談したところ、父親自身も若い時に海外志向があり、家族揃ってブラジルに行くことを決めた。当時、茨城県からブラジルに移民として行く人が多く、その手続きを行っていた県庁では当初、サンパウロ州北部のグァタパラ移住地への入植を勧めたという。
 しかし、井野さん家族は、当時の「ラテン・アメリカ」という雑誌に掲載されていた戦後移民として、スザノ福博村に入植して3年だという山本周助(しゅうすけ)さんのことを知り、隣県の千葉県の実家の住所を頼って井野さんの父母が山本さんの親族に会いに行った。そうしたところ、山本さんがブラジルで商売を手広く行っていることを伝えられた。さらに、山本さんが住んでいる福博村の隣人が町に出たことで、たまたまその家を売り出していたことを知らされ、「周助さんの隣なら安心」と考え、福博村に入植することになった。
 入植した当時、井野さんは高校2年生(17歳)だったが、ブラジルであるにも関わらず村には日本人が多いことに驚いたという。「当時は確か日本人が200家族ぐらい居たと思いますが、言葉の心配も全然なかったです」
 その頃から福博村では養鶏を行っていたそうだが、井野さん家族は養鶏の副業として野菜作りも行った。日本からいくばくかの携行資金を持ってきてはいたが、当時のブラジルは経済的に厳しく、井野さん家族は質素な生活を送っていた。
 ただ、新聞だけは買い、情報を集めていたが、その新聞を書道の稽古やトイレ用の紙として代用するなど、父親から「物を無駄にせず、大切にすること」を日常から言われていたこともあり、井野さんは日本人としての生き方を貫いてきた。
 「養鶏村」と言われた福博村を含めたスザノ市内で、現在も唯一の養鶏家として継続していることについて井野さんは、「普通の百姓は体力が必要ですが、養鶏は体が強くなくても鶏舎だったため雨の下でも続けることができました。また、当時のブラジルでは自分だけが儲かればよいという考え方が中心的でしたが、私の思想は無理に儲けようとしないで、卵が安くなれば誰かが儲かるというように考えました。例えば、鶏の原料となるトウモロコシの値段が安くても、次の年になれば高くなります。そうした中道(ちゅうどう)の考え方ができたのは、やはり日本で受けた基礎教育のお陰だと思っています」と強調する。
 国民のことを考えず、自分たちの権力を行使する現在のブラジル政府のやり方に危機感を持つ井野さんは、「ブラジルの義務教育をもっと日本並みにすることを政府にやってもらいたい。そうすれば、国民全体のレベルも上がる。息子たちには、『お父さんは理想主義すぎる』と言われたこともありますが、いつかは分かってもらえると思います」と考えている。
 現在、井野さん家族は約90万羽の鶏を飼い、一日に74万5000個の卵を生産しているという。スザノ市の人口が約35万人であるため、井野さんは「スザノ市民一人2個分の卵を作っていることになりますね」と淡々と語る。
 既に養鶏業は息子たちが中心となって営業しており、「私は遊軍ですよ」と話す井野さん。「最近は少し暇ができた」と言いながら、仕事の合間に趣味の昆虫採集を行っているそうだ。(2016年9月号掲載)  


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松本浩治 :  
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