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マツモトコージ苑
     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/04/22)
佐野米夫さん [画像を表示]

佐野米夫さん (2025/04/09)
2020年9月号佐野米夫さん.JPG
 「自分の夢は何とか、叶えることができました」―。こう語るのは、アクレ州のリオ・ブランコ市に住む佐野米夫(よねお)さん(69、福井県出身)だ。第1次14回コチア青年として、1958年5月17日にサントス港に到着。サンパウロ州アチバイアの横川農場、バストスの畑中農場で4年間の任期をまっとうしたあと独立し、南マット・グロッソ州のドゥラードスを経て、リオ・ブランコへと渡った。
 実家が米作りなどの農業を営み、少年時代は養蚕の手伝いも行なっていたという佐野さんは、戦前、満州に行っていた兄・金蔵(きんぞう)さん(故人)の影響を受け、「土地の大きなところに行きたい」との思いをずっと持っていたという。
 地元・若狭(わかさ)高校の農林科を卒業し、京都の製材所に4年間勤めた経験を持つ佐野さんは、コチア青年の募集雑誌などで知り、ブラジルに行くことを決意。当時の日本は失業者も多く、当初は自衛隊にも願書を出し、入隊する気持ちもあったが、家族からは猛反対されたという。
 「兵隊はダメだと言った親や兄弟たちも、ブラジル行きには反対しませんでした」と語る佐野さんは、三重県鈴鹿市での事前研修、神戸移住センターでの生活訓練を経て、58年3月末に「さんとす丸」に乗り込んだ。その頃、伝染性結膜炎の「トラコーマ」が流行し、佐野さん自身もトラコーマにかかってしまった。ブラジル移住にあたって、名目上の検査は通ったものの、「他のコチア青年でも(トラコーマのため)目薬を差している人が何人もいた」状況だったという。
 コチア産業組合により、アチバイアの横川農場に配耕された佐野さんは約1年間、同地でトマト作りや野菜の農薬散布などの仕事に携わった。農場主がバタタ(ジャガイモ)で借金を作ったために移転を余儀なくされ、バストスの畑中仙次郎(せんじろう)氏の農場へと転住。畑中氏は当時のブラジル拓殖組合(ブラ拓)支配人で、その長男は同地の日系市長にもなるなど、名を馳せていた。
 「畑中さんはパトロンでありながら、人間的にも優しい人した」
 アチバイアでの1年を合わせて、コチア青年としての4年間の義務農年をバストスで果たし独立。同じコチア青年のパトロンの配慮で南マット・グロッソ州ドゥラードスに土地を借りることになった。そのパトロンは、サンパウロ州高等裁判所判事だった渡部和夫(わたなべ・かずお)氏の兄だったという。独立資金は一切なかったものの、畑中氏は佐野さんたちが独立する前にトラクターを貸し出し、自立するための手助けを行なってくれた。
 ミカンの苗や野菜作りを行なっていた佐野氏は、その数年後には自分の作った生産物をフェイラ(青空市場)で販売するようになっていた。その時知り合ったのが、アサイ(パラナ州)出身の芳子(よしこ)夫人(2002年に死去)だった。結婚して10年後に芳子夫人の兄がリオ・ブランコに土地を買ったことが契機となり、佐野さんも同地への再移住を決めた。当時いた日本人家族はわずかに3家族のみ。「入植当時は野菜も何もない。マモン(パパイヤ)の青いのを煮て食べていました」と佐野さんは当時を振り返る。
 義兄が購入した土地は1万アルケール(約2万4000ヘクタール)。1ヘクタールが、20センターボほどの安価な時代だったという。当初は10分の1の土地を譲り受ける予定だったが、現在の土地は50ヘクタールに過ぎない。義兄は300~400ヘクタールほど土地を開いたが、正式な地権(ちけん)を持っていなかったことなどから、大半の土地はFUNAI(先住民保護財団)の保護地区となった。
 農作業に追われ、子供たちと一緒にいた時間が少なかったという佐野さんだが、子供たちの教育のためにキナリーの町などに家を借りて学校に通わせた。
 現在は日本での出稼ぎで資金を貯めて帰伯した息子たちが、農業生産を引き継いでいる。佐野さん自身もキュウリや柑橘類などの生産活動を行いながら、悠々自適の日々を送っている。農業を一貫して続けてきた佐野さんは「まあ、自分の夢は叶ったと思っています」と、陽に焼けた顔をほころばせていた。(2020年9月号掲載。2005年5月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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