天願憲松さん (2025/04/15)
第2次世界大戦終戦直後、約3年間シベリアに抑留され、ようやくの思いで故郷の沖縄に生還した経験を持つ天願憲松(てんがん・けんしょう)さん(88)。戦後渡伯した後、野村流音楽協会ブラジル支部長などを歴任し、その活動に力を注いできた。 サンパウロ市内に住む天願さんは戦前、沖縄県具志川村で稲作やサトウキビなどの農業生産を手伝っていたが、1943年8月に召集され、鹿児島を経て満州の「独立混成第80旅団砲兵隊」に入隊した。21歳の時だった。 45年8月9日、旧ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦布告。満州に侵攻して攻撃を仕掛けてきた際、どこで武装解除が行われたのかは天願さんの記憶にはないという。覚えているのは、「日本に帰れると思って汽車に乗り、向こう(シベリア)に着いて初めて帰れないということが分かった」ことだ。収容所の名前もすでに記憶にないが、口滑らかに出た言葉は「エレクトロ・マッセルスキー」という収容所付近で労働させられた職場の名前だった。 シベリアでの強制労働は日によって違ったが、主に鉄道の枕木の切り出しや敷設など様々だったという。当時、背が高い上に体格も良かった天願さんは、その恵まれた身体を見込まれてソ連軍から「鍛冶屋工(かじやこう)」の仕事を命じられた。他の日本人捕虜たちが零下35度前後にまで下がる屋外での労働を強要された中、天願さんの仕事は火を使用する屋内での作業だったことが、最終的に生き残る好条件となった。 「日本で鍛冶屋の仕事はしたことが無かったが、決まった仕事を集中してやるのが良いと一生懸命やっていると、ロシア人から認められ、最後には頭を下げて刃物の注文が来るようになったほど。『2人分の食事をもってきたら、仕事をしてやろう』という交渉もできるようになり、周りでは『テンガン』という名を知らない人間はなかったほどだった。最初の1、2年は苦しかったが、まだ若かったし、環境に慣れることができた」と天願さんは当時の様子を振り返る。 それでも食事は、燕麦(えんばく)と高粱(こうりゃん)が主で、「米など見たことがなかった」という。「黒パンがあったが硬くて、パンの上に乗っても割れなかった」と天願さん。ごくたまに、ジャガイモを見つけ、馬糞を燃料に焼きイモにしてこっそり食べたこともあり、「とにかく、食べることしか頭になかった」生活を続けてきた。 48年9月29日に舞鶴港に到着、翌49年1月にようやく沖縄に戻ることができた天願さんだが、「本当に生きて帰れるとは思ってもいなかった」という。 召集前に19歳で現在の照子(てるこ)夫人(86)と結婚していた天願さんは沖縄に帰った後、嘉手納(かでな)アメリカ空軍基地で働いた。バス通勤中のある日、バスのラジオから沖縄の琉球古典音楽が流れ、天願さんは釘づけになって聴き惚れた。それをきっかけに三線(さんしん)を使って琉球古典音楽を唄うようになり、音楽教習所にも通い始めた。しかし、生活が苦しく、当時5人いた子供と照子さんを連れてブラジルへ行くこととなり、「あふりか丸」で58年3月にサントスに到着。モジ・ダス・クルーゼスに入植し、キャベツやバタタ(ジャガイモ)生産などを行ったが生活は楽にならず、7か月でサンパウロへと出た。サンパウロでは、葉野菜作りとともに自分で作った品物をフェイラ(青空市場)で売りさばき、家計を助けてきた。そうした生活の合間にも琉球古典音楽を継続。その普及に貢献し、同協会ブラジル支部長も2期4年間務め、その後も相談役として後進の指導に当ってきた。 戦中の同時期に召集され、シベリア抑留時期も一緒だった沖縄の戦友たちに対して日本政府から軍人恩給が支給された一方で、天願さんは日本政府側の特殊な恩給計算方法により、「10か月足らないために恩給を受けられない」立場にあった。以前は、日本政府のやり方に反発し、同政府からの銀杯授与を拒否したこともあったが、「もう恩給の有る無しについては、問題にしていない。戦友たちがシベリアで惨めな死に方をしていても、何の補償もないことを思えば、今さら恩給をもらってあくせくと生きたくもない」と話す天願さん。「零下35度もの寒さの中で死に絶え、そのまま土となって今もシベリアに埋まっている戦友たちのことを思えば、生き抜いてこられただけでも有難いと思わなければ」と、噛み締めるように語っていた。(2020年10月号掲載。2010年8月取材、年齢は当時のもの)
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