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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/04/22)
岡田隆典さん・栄さん夫妻 [画像を表示]

岡田隆典さん・栄さん夫妻 (2025/04/22)
2020年11月号岡田隆典・栄夫妻.jpg
 パラー州サンタレン近郊在住の岡田隆典(りゅうすけ)さん(76)は、故郷の宮崎県で地元の産業開発青年隊として、観光道路の開発などを行っていた。次男である隆典さんは「ブラジルに来るとは考えてもいなかった」というが、長兄がブラジル行きを熱望し、父母、兄弟ら合わせて6人で1954年12月に神戸港から海を渡ってきた。「ゴム移民」として入植した当時のゴム園「ベルテーラ」について、「本当にきれいだった」ことが深い印象として記憶に残っている。
 隆典さんは、宮崎県時代に産業開発青年隊の仕事以外に夜学に通い、測量や修理技術の勉強をしていたこともあり、機械分野を得意としていた。そのため、ベルテーラでは、総支配人の越智栄(おち・さかえ)氏から「ディーゼル・エンジンに詳しい人は居ますか」と問われた際、一番に名乗りを上げた。
 仕事内容は、採取されたゴム液を遠心分離機にかけ、濃度をより濃くすること。午前8時から午後4時までで、機械が止まった時に修理を行う。技術職であったため、他の人よりも若干(じゃっかん)給料が良かった。夜は特別に小学校でポルトガル語を教えてもらい、4カ月間通ったという。
 比較的安定した生活が続いたが、強制退去命令により、日本人家族の生田(いくた)家族、千葉(ちば)家族とともに、岡田家もアレンケールへと移ることに。仕方なく、55年9月にアレンケールに転住し、高拓生の沢木さんという人の世話になり、見よう見真似で当時相場の良かったジュート麻栽培を行った。「胸まで水に浸かってジュートを切っていると、時々電気ウナギが水中を通り、電気ショックで足にビリビリ響くんですよ」と隆典さん。食べ物は、米をはじめ、カピバラやピラルクーの干したものなど結構何でもあり、「肉体労働のため体力を付けなければと何でも食べましたね」と当時を振り返る。
 そうした生活を1年間続け、56年11月には生田家の娘である栄(さかえ)さん(69)と結婚。弟で三男の慶典(けいすけ)さん(71)は、栄さんの長姉であるハマ子さん(73)とそれぞれ結ばれ、同じ日に結婚式を行った。
 住んでいた場所は乾季になると土地が悪くなるため、隆典さんは結婚を機にアレンケールから約5キロ離れたマッキーという川沿いの場所に転住。同地で豚を300頭ほど飼い、米やマンジョカ芋などを植えた。1年半ほど経った時にアレンケールの農事試験場長の呼び寄せにより、同試験場で養豚や養鶏の整備を任され、生活も安定しだした。
 ある時は、試験場の上司が持っていたタパジョス川にある金鉱の土地調査を依頼され、前金として4キロ分の「黄金」の値段分を手渡されたことがあったという。隆典さんの人間性が、ブラジル人に信用されていた訳だ。
 62年頃、子供の教育のためサンタレンの町に出て、父親や兄たちは野菜作りを行ったが、隆典さんは技術を生かし、町でラジオやテレビの修理屋を始めた。日本でやってきた技術を、ブラジルでも生かすことができた。 
 子供たちが大学を卒業し、独立するとともに隆典夫妻は、サンタレンの町から13キロ離れたエストラーダ・ノーバに移り、ピメンタ(コショウ)をはじめマラクジャ(パッション・フルーツ)やランブータンなどの熱帯果樹を植え、現在も同所に住んでいる。また、2001年からは、ブラジルの原点であるベルテーラの土地について友人でもある市長から「何でも欲しいものがあれば相談に来たら良い」と言われ、同地に土地を所有。クプアスーやグラビオーラなどの熱帯果樹も植えている。 
 「ブラジルでは苦労するというけれども、食べるものが無いという意味では日本の戦後のほうが苦しかった。ここは食べることだけはできるから」と隆典さんは、充実した表情を見せていた。(2020年11月号掲載。2008年11月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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