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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/06/15)
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木下喜雄さん (2025/06/15)
2021年7月号木下喜雄さん.JPG
 2004年10月、ブラジル農業分野への貢献者に贈られる山本喜誉司(きよし)賞が、サンパウロ州ジャカレイ近郊の第2高森(たかもり)移住地在住の木下喜雄(よしお)さん(70、山口県出身)に授与された。木下さんの受賞は、果樹や花卉(かき)栽培の接ぎ木(つぎき)法開発でブラジル国内に広めたことや、1970年代半ばから進めている緑化運動などの貢献が認められたもの。「受賞は周りの皆さんが推薦し、協力してくれた結果」と控えめだが、「地球の砂漠化を防止するためにも、緑化は必要」と熱い思いを見せていた。
 第2次大戦後の混乱期に、山口県の経営練習農場でスパルタ式指導を受けた木下さんは、山口県知事などの推薦を受けて、16歳の若さで静岡県の「富士中央開拓講習所」に入所した。同所は、戦後日本の食糧難を解決するための機関として設立。2年間の訓練を終えた木下さんは、農業改良指導員の免許を持つまでになっていた。
 56年、ブラジルの山口県人会関係者の呼び寄せで、山口県から戦後初めての移民として渡伯した木下さんは、サンベルナルド・ド・カンポの瑞穂(みずほ)村、ブラガンサ・パウリスタなど日本人のパトロンの下で働きながら、ブラジル農業を実際に体験した。
 翌57年には、ブラジル国中で販売されているラランジャ・ペラの種から苗を30万本作り、「フォーカート式接ぎ木法」の変形式接ぎ木法を考案。大量栽培が実現した。当時はカフェが生産過剰となっていた時代で、生産者たちはカフェ畑の跡地にラランジャ・ペラをこぞって植え、国内中に広がったという。また、バラの接ぎ木も並行して行い、新種のバラを全国に知らしめた。
 力を注いできた緑化運動は、76年から始めた。ちょうど、ラン栽培に失敗し、2億円の借金を背負った時期だった。「自殺も考えたが、他人の土地も抵当に入っていたので死ぬわけにはいかなった」と語る木下さん。サンパウロ市パウリスタ大通りの銀行に融資を頼みに行った際、公園にある木々を見て、「サンパウロを緑にある街にしたい」と思いついたという。
 ちょうど、その頃は日伯セラード構想が実現した時期でもあり、ブラジル政府は各都市への街路樹を植える法案を実施に移している時だった。木下さんは2億円の借金を2年で返済し、緑化運動を更に進めてきた。
 2004年当時、第2高森移住地内の70町歩の苗木畑には140種類、200万本におよぶ苗木があり、その数年前から管理を長男に任せていた。木下さんはその頃、サンパウロ州のグァタパラ、イタペチなどで緑化の実践講演を行なっていたほか、各種イベントでの植木の装飾を手伝うなどの活動を続けていた。
 「ブラジル国内ではブラジリアが一番、砂漠化の危機にある。木々は地下水を吸い上げ、その上空に湿気をつくることで別の雨雲を呼ぶ。そのため、水を確保するには木を植える必要がある」と木下さんは、緑化運動が世界的に減少しつつある水資源確保につながることを強調していた。
 また、砂漠化防止のための苗木の生産・販売のほか、「インブラーナ」「カブリウーバ」など家具用資材としての有用樹の生産や病虫害防止のための混植も考慮。さらに、麹(こうじ)菌を保有する「サポチー」、ガンに効果があると言われる「タヒボー」などの薬用樹生産も必要だと主張していた。(2021年7月号掲載。2004年11月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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