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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/08/24)
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大嶽一さん (2025/07/27)
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 生前は「アマゾンの生き字引(じびき)」的存在として慕われ、2009年10月に97歳の高齢で亡くなった大嶽一(おおたけ・はじめ)さん(静岡県出身)。戦後のアマゾン移民を各地域に入植させた辻小太郎(つじ・こたろう)氏の事業を手伝った経験があり、ブラジリアン柔術の創始者コンデ・コマ(前田光世(みつよ))氏とも親交があった。  
 大嶽さんは静岡県沼津市の商業学校を卒業した後、1931年に渡伯。「ぶえのすあいれす丸」でベレン市から約150㎞離れたオウレーンという町に入植した。同地に入ったきっかけは、日本での学校の先輩で、後(のち)にアマゾン地域を拠点にブラジルのスーパーマーケット業界で広く名声を博した「Y・ヤマダ商会」の創設者・山田義雄(よしお)氏(故人)との関係があったからだという。
 山田氏は当時、ブラジルで植民事業を行いたいとの希望を持っており、日本で農業や機械操作技術に長けた日本人をオウレーンに入植させた。しかし、マラリアが猛威をふるい、入植者のほとんどがその被害に遭っている。同地では米、トウモロコシ、マンジョカ芋などの作物を生産していたが、「(マラリアの)熱が下がった者がメシの支度をする生活」(大嶽さん)が続き、大嶽さんは仕方なく4年ほどでパラー州都のベレン市に移った。
 講道館柔道の5段を取得していた山田氏のつてで、コンデ・コマ氏を紹介され、その斡旋で金物屋の店員や在ベレン日本国総領事館(現・在ベレン領事事務所)の職員として働いたこともあったという。
 その後、「アマゾニア産業」で麻袋(あさぶくろ)の原料となるジュート(黄麻(こうま))の生産、販売の仕事に携わり、1930年代後半には同社の支社があったアマゾナス州パリンチンスの現場に入った。ジュート栽培は当時、ブラジルの国策として奨励され、もてはやされた時代だった。
 しかし、41年に第2次世界大戦が勃発すると、日本人はブラジル国内で敵性外国人扱いされるようになった。その影響で、大嶽さんも生産物のジュートをオリシミナーと呼ばれるアマゾン地域の町に持って行く際には、同地での行動予定を警察署に報告することが義務づけられたそうだ。
 戦況の情報などが一切入ってこない大嶽さんにとって、当時のオリシミナーの町で約80%を占めていたイタリア移民から同盟国同士の情報を聞くことが楽しみだった。ところが、ある日、警察への報告義務をせずに町を出たところ逮捕され、監獄に入れられた。その時、身柄を引き取ってくれたのがイタリア移民だったという。
 戦後、サンパウロに出ようと考えていた時に、5000家族の戦後移民をアマゾン地域に入植させる計画の準備を行なっていた辻小太郎氏と出会った。同氏から入植事業を「手伝ってほしい」と言われた大嶽さんは、40年代後半から各植民地に移民を送る船の手配などを行い、53年の第2回戦後移民到着まで辻氏の仕事に従事した。
 その頃、移民船がアマゾンに来るたびに味噌や醤油(しょうゆ)などの日本食製品を譲り受け、「新しい日本人」と会えることなどからも「移民船が来ることが待ち遠しくて仕方なかった」と大嶽さんは当時を懐かしむ。
 その後、日本の商社に入社した大嶽さんは、「黒いダイヤ」と持てはやされたコショウ(ピメンタ)のブームに乗った。晩年も、ブラジルに来るきっかけとなったY・ヤマダ商会の顧問として毎日を優雅に送っていた。
 最初にブラジルに渡ってきた際には、神戸港から出港したという大嶽さん。「今まで、よく生きてきた。神戸で船が出る時のテープを投げたことを今も思い出す」と、自分の生きてきた道のりを感慨深げに振り返っていた。(2021年12月号掲載。2001年5月取材)


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松本浩治 :  
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