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マツモトコージ苑
     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/09/01)
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大竹秋廣さん  (2025/08/24)
2022年4月号大竹秋廣さん.jpg
 パラー州サンタレンから、アマゾナス川を約120キロ下った対岸に位置するモンテ・アレグレ市。同地への日本人移住は、1931年に大阪YMCA海外協会が結成したアマゾン開拓青年団が最初とされる。第2次世界大戦後は、南米拓殖会社農場跡のムラタ地区やアサイ・ザール地区などにベルテーラ・ゴム園からの転住者を含めた日本移民たちが入植したが、整備されていない環境に脱耕者が相次いだ。
 60年代後半には、東京農業大学出身者が同地に入植し、そのうちの一人がモンテ・アレグレから約50キロ離れたマカカ地区に住む大竹秋廣(あきひろ)さん(63、静岡県出身)だ。同地でピメンタ(コショウ)、カフェ、マホガニーなどを混植したアグロフォレストリー(森林農業)を実践している。
 大竹さんは、69年10月に「ぶらじる丸」で着伯。ブラジルに行くにあたっては在学中に、東京農大の4期上の先輩にあたる故・岸靖夫(きし・やすお)氏から、大竹さんの同期の加藤和明(かずあき)氏(故人)、大槻雄二郎氏(日本在住)とともに共同農場の話を持ちかけられた。
 共同農場は、66年に入植した岸氏が場所の選定などを行い、加藤、大槻の両氏は在学中に一度、同地に足を運んでいた。大竹さんは在学中に1年間、米国のアイオワ州の穀倉地帯で農業研修を行なった経験を持つ。その後、ブラジル移住を選び、モンテ・アレグレにある農業協同組合の職員を経て、72年に同農場に入植した。
 『東京農大卒業生アマゾン移住五十周年記念誌』によると、70年代のモンテ・アレグレは全盛時代で、幹線道路の整備、地権交付、銀行融資など移住地の環境も好転。ピメンタを中心に牧畜、野菜、果樹などを組み合わせた営農も行なわれていたという。
 大竹さんは「その頃は日本人が多かったし、皆、(心に)燃えるものを持っていました。組合も発展したし、新しい作物に挑戦したり充実していましたね」と当時を振り返る。しかし、80年代に入ると、ハイパー・インフレによる経済不況をはじめ、主作物であるピメンタの価格低迷や病害などの諸問題に悩まされ、移住地を出る人も続出した。
 大竹さんは同地で紀子(みちこ)さんと結婚し、1男4女の子宝に恵まれたが、85年に紀子さんに先立たれた。大竹さんもブラジルの不況の波にもまれ、93年から1年間は日本で出稼ぎとして働いた。
 モンテ・アレグレに戻った大竹さんはその後、ブラジル人で公務員のルシアさんと再婚した。ルシアさんは平日はモンテ・アレグレの町で働き、週末には農場のあるマカカ地区で一緒に生活を送っている。大竹さんも週2日はモンテ・アレグレの町に出ていく生活を続け、子供たちはそれぞれベレン市などの都会に住んでいるという。
 「移住地ではNHKも入らないし、(ブラジル大手メディアの)グローボ局も映りが悪くてね」と大竹さんは移住地の現状を語る。しかし、同地でアグロフォレストリーを実践している日本人としての几帳面な性格がなせる業(わざ)か、きれいに整えられた農場が印象的だった。
 森林農業は、東京農大の先輩でトメアスーに住んでいた坂口陞(さかぐち・のぼる)さん(故人)から教えてもらい、2000年から始めたという。その間、モンテ・アレグレとトメアスーの間を行ったり来たりする生活を送っていたが、その時の思いが実を結んでいる。
 「日本から出てくる時は単身でしたが、ここでは自分の好きなように生きてきたし、日本に帰るつもりは無いですよ。続く限りはここで、やっていこうと思っています」と大竹さん。モンテ・アレグレに住む日本人が少なくなる中で、自らに言い聞かせるかのように話してくれた。(2022年4月号掲載。2009年6月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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