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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/11/11)
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森繁親さん (2025/11/11)
2023年3月号森繁親さん.jpg
 現在(2023年3月時点)、ブラジル長崎県人会の会長を務めている森繁親(もり・しげちか)さん(75歳、長崎県多良見町出身)は少年時代、アマゾン地域アマパー州マカパ市から約120㎞離れたマタピー植民地で過ごした経験を持つ。同植民地には1953年と54年の2陣に分かれて、ゴム栽培などを目的に計約30家族の日本移民が入植した経緯がある。
 マタピー移民の第2陣として54年7月に「ぶらじる丸」で神戸港を出航した森家族は、父母、叔父(父親の弟)と当時6歳だった長男の森さん、次男の弟(当時3歳)の5人でブラジルに渡ってきた。
 父親の安夫(やすお)さんは、中学校を卒業した15歳の時から南朝鮮(現・韓国)で就労。日本に帰国後の18歳で海軍に入隊し、潜水艦に約3年乗艦していたという。45年8月18日に出撃命令を受けていたが、同15日に終戦を迎えたことで生き長らえることができた。
 一方、長崎市出身である母親の美枝子さんの家族は45年8月9日に投下された原爆の被害を受けた。疎開していた美枝子さんは助かったものの、爆心地から約80mの自宅に住んでいた両親の遺体は行方不明となり、生前付けていた指輪から、姉の手だけがその後に見つかったという。
 戦後の厳しい時代、安夫さんは家族でブラジル行きを決意。54年8月27日にベレン港に着いた森家族は、船を乗り換え10日ほどかけてマタピー植民地に到着した。森さんはブラジルに来る数カ月前、父親から「(南)アメリカに行くぞ」と言われ、書籍などで見知ったアメリカ(北米)で高層ビルが建ち並ぶ都会生活ができると子供心に思っていたという。しかし、現地に着いてみると、あたり一面のジャングルで電気も無い生活が待っていた。
 マタピー植民地では、ゴム栽培用の苗を植えるところから始まり、父親たちは食糧用の米やマンジョカ(キャッサバ)芋、トウモロコシなども作っていた。植民地付近には現地の学校もあり、5㎞ほどの道のりを森さんは裸足で歩いて通っていたという。
 ゴムの樹木が成熟して樹液が採れるようになるまでは15~20年かかるそうだが、森家族は結局、入植5年目の59年末にマタピー植民地を出ることに。その前年に植民地を出ていた日本人家族を頼り、エスピリト・サント州ヴィトリアを経由してリオ州バレンサという町に移転。同地でトマト作りを中心に、キュウリやピーマンなどの栽培を始めた。
 当時、南伯農協(スール・ブラジル)の組合員となっていた父親は、サンパウロ州コロニア・ピニャールやレジストロ近郊のイグアッペに土地を購入し、家族でイグアッペに転住。同地でもトマト作りなどを行い、父親は長男の森さんに農業を継いでほしいと考えていた。しかし、森さんは勉強が好きで、イグアッペからレジストロの高校に通いながら、その合間に農作業を手伝っていた。
 高校卒業後も数年は家族とともに農業を行っていた森さんだが、「大学に行って勉強したい」との思いが強かった。家族と相談した結果、次男が農業を継ぐことに。長男の森さんは単身、モジ・ダス・クルーゼス市に出てブラス・クーバス私立大学に通いながら、親戚の紹介により、日系企業の豊和(ほうわ)工業で働いた。
 その後、知人のつてでコチア産業組合での仕事を経て、自動車プラグ製造会社NGKに勤務した。29歳の時には約10か月間、長崎県人会の推薦により長崎県の「十八(じゅうはち)銀行」で技術研修も体験。ブラジル帰国後は現在の夫人であるルイザ和美(かずみ)さん(69歳、2世)と結婚するなど、生活の基盤を整えた。
 23年間、NGKでサラリーマンとして働いた森さんは、50歳を過ぎてから商売に転向。サンパウロ州立工業専門学校内の売店で働いた後、モジ・ダス・クルーゼス市セントロ区のブラジル・レストランを夫婦で切り盛りすることになった。ブラジル食に巻き寿司や天ぷらなどの日本食も取り入れ、地元では評判も良かった。2017年にレストラン業も引退し、その後は地元のモジ中央日本人会の会長や、20年からはブラジル長崎県人会の会長も任されるようになった。
 マタピー植民地時代の思い出について森さんは「両親たちは苦労したと思いますが、自分らはまだ子供だったので近くの小川で泳いだり、友達と魚を釣ったりしてけっこう楽しかったですね」と当時を振り返っていた。(2023年3月号掲載)


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松本浩治 :  
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