移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
マツモトコージ苑
     2004年  (最終更新日 : 2026/04/08)
「共栄移住地」半世紀の歩み

「共栄移住地」半世紀の歩み (2026/04/08)
(1)

 今年(2004年)2月24日、入植から50周年を迎えた共栄移住地。南マット・グロッソ州ドゥラードス市から南東に約10キロの地点に位置し、「テラ・ロッシャ」の肥沃で平らな土地を利用した大豆などの穀物類生産は、全伯にも鳴り響いている。同22日に開催された記念式典・開拓先没者法要には移住地挙げての準備が行われるなど、50年の節目の年を在住者たちは心から祝った。原始林を開拓していった当時の移住地の様子など、半世紀の歩みを振り返る。

 南マ州日伯文化連合会創立25周年記念誌「躍進のへ道」によると、共栄移住地には本格的な入植が始まる前年の1953年、戦前移住者の西牟田孝則氏をはじめとする4人がすでに足を踏み入れていたという。
 同年には、戦後初めての松原安太郎移民約60家族が第3船に分かれてドゥラードスから東へ75㎞の距離にある場所に入植していた。当時ゼツリオ・ヴァルガス大統領と懇意の関係にあった松原氏は、南伯に移民導入を計画。日本移民4000家族の導入権利を、同大統領から付与されていた。
 その頃は、ブラジル国内でも連邦政府により東北地域在住ブラジル人を同地に移住させる計画が進められており、松原移民の入植を皮切りに戦後の日本移民も続々と周辺地域へと入植した。
 翌54年には、「あふりか丸」で渡伯した北海道からの計画移民8家族と三重県から2家族を合わせた戦後移住者計10家族が同地に入った。しかし、入植地の区画整理ができていなかったことなどから入植許可がなかなか下りず、移住者たちは現在の移住地のメインストリートになっている「バレイロン通り」にあったブラジルの小学校で半年間の共同生活を余儀なくされた。
 当時、総勢約80人。慣れない土地・気候風土の中で、男性たちは東に約50㎞離れた開拓予定地の道づくりのため出かけた。女性と子供たちは小学校に残り、生活を支えた。
 しかし、連邦政府払い下げの土地の測量・ロッテ割が遅々として進まない。入植者たちはミーリョやフェジョンなど自らの食糧生産物の植付けの時期間近の7月になっても入植できない事態に業を煮やし、現在の移住地のあった肥沃な土地をブラジル人から自費購入したという。
 その後、北海道などからの入植者も急増。すでにいくらか伐採されていた原始林を焼く作業とともに、「金の成る木」と言われたカフェ生産のための種蒔き作業も実施された。
 カフェ収穫の目途が立ち、生活の見通しがようやくつき始めた57年初頭には、日本人会と男女青年会が結成された。また、翌58年7月には野球場を造るために1アルケール(約2・4ヘクタール)の土地を購入。農作業の合間に家長のみならず、青年や子供たちまでが手伝い、土地の抜根作業などにあたったという。
 カフェ生産も軌道に乗り、苦しい中にも順調に進んでいた移住地の生活だったが、75年、それまで経験したことのない大霜が移住地周辺地域一帯を襲った。何年もかけて育んできたカフェは一夜にして全滅。根元まで黒く焼けていたという。 移住者たちのショックは大きかったが、このことが現在の大型機械化農業への転換となった。現在では、入植者のほとんどが大豆生産を中心に裏作としてミーリョ(トウモロコシ)などの穀物類を生産。約30年経った今でも周辺地域の中では最も肥沃で恵まれた土地として知られている。

(2)

 入植50周年の記念式典を前日に控えた2月21日午後1時、移住地の人々が日本人会館に集まり、式典の準備が行われた。
 その中でもメインとなったのが、川魚「チラピア」の刺身づくり。魚はすでに業者から購入し、切り身が冷凍庫に保存されていたが、刺身用に薄く切り、皿に盛り付ける作業が残っている。重さにして約50㎏。700人分の出席者を見込んでの重大な仕事だ。
 会館奥部の台所には主に母の会(婦人部)のメンバーが20人ほど集まっているが、中には家長の男衆の姿も見える。各自、家から包丁を持参し気合が入っている。
 刺身を切る前にまずは下準備。約100枚の皿を洗い、刺身のツマとなるキャベツを切る。誰も何も言わないが、それぞれに分担しているところは、さすがに普段から慣れたものだ。
 同地では生活柄、趣味と実益を兼ねて魚釣りをすることが多いため、男性であっても魚をさばく機会は多い。刺身の切り方の手本を見せるのは、日本人会会長の城田芳久さん(43、2世)。母の会のメンバーもそれに習って、熱心に包丁を動かす。
 皿に敷かれた千切りのキャベツの上に薄く切られたチラピアの刺身が盛り付けられる。いかに綺麗に見せるか、腕の見せ所だ。母の会会長の伊藤三重湖さんに話しを聞くと、これでも通常の節目の年の記念行事の準備に比べると、楽な方だという。 
 「今年は50年ということで、『式典当日には婦人の方たちにもゆっくりと楽しんでもらいたい』という城田会長の意見で刺身以外にはビュッフェを取ることに決まりました」(伊藤会長)
 母の会メンバーの太田美栄子さん(63、北海道出身)も、「明日(の式典)は楽ができます」と嬉しそうな笑顔を見せる。確かに記念行事と言えど、料理の準備から後片付けまですべての面倒を見るのは、どこの団体も婦人部の仕事となっていることが多い。共栄移住地でも5年前の45周年の式典の際には牛一頭を丸焼きにし、出席者の好評を得たというが、その背景には母の会の大きな後ろ盾があった。
 台所では、次々と刺身が円形に盛り付けられ、ラップをして冷蔵庫に再び保存する作業が繰り返される。終始、下方を向き、何枚もの刺身を切るため手や腰が痛くなるようだ。
 「あー、疲れた」と腰に手を当て時々天を仰ぐ人もいれば、「手が痛くなるほど刺身を切って、いい思い出になるよ」と苦笑する人もいる。
 そうした中、母の会の人たちに交じって北伯ロンドニア州のポルト・ベーリョから来たという城田末子さん(51、三重県出身)の姿があった。末子さんは城田会長の叔母にあたり、移民船の中では「ハイハイ」ができる程度の赤ん坊だったと後に親たちから聞かされたという。結婚する19歳までを共栄で過ごしたこともあり、「式典のコンビッチ(招待状)をもらった時には、色んなことを思い出して半日泣きました」と末子さん。率先して刺身を切っていた。
 また、この日の午前に共栄入りしたという小柄な婦人も、台所に姿を見せた。谷本米子さん(75、北海道出身)は56年に入植。数年間、移住地で暮らしたが、諸事情で他所へ移り、クイアバなどを経て、現在はサンパウロ市のリベルダーデ区に住んでいるという。
 「ここに来たら若返るよね」と言いながら、「当時は私も男たちと一緒にヤマ(原始林)に入り大きなノコギリを引っ張りあげる作業もやったよ」と谷本さんは当時を振り返りながら、懐かしい顔ぶれとの再会に思い出話は尽きない。
 会場となる舞台では、城田会長自らが中心となり、移住地の人々とともに横断幕張りや装飾作業が進められている。また日本語学校の生徒たちは会場内を清掃し、椅子を並べている。
 結局、刺身を切る作業が終了したのは午後5時過ぎ。参加者全員に軽食とスイカが振舞われた。
 移住地に残った人、離れた人の誰もが翌日の記念式典を心待ちにしていた。

(3)

 2月22日、共栄移住地入植50周年記念式典の席上、同地に50年間滞在・貢献したとして日本人会とドゥラードス市議会から表彰されたうちの一人、飯山幸雄さん(68、北海道出身)。 飯山さんは、祖父母、父母、姉弟たちと14人家族で54年に「あふりか丸」で渡伯。親戚が戦前移民としてブラジルに定着し、戦後日本に遊びに来ていたことが飯山さん家族の心を動かした。
 北海道紋別市渚滑(しょこつ)町に住んでいた飯山さん家族は、町の三方を川に囲まれ、毎年春の雪解けの季節になると浸水問題に悩まされた。「土地が水に浸かり、牧畜もやっていたから牛を山に追いやるなど大変で、『水の無いところに行きたい』というのが家族の気持ちでした」
 飯山さんの伯父がパラナ州アサイにいたことから、当初は計画移民として同地に入植する予定だったという。しかし、松原移住地の生みの親である松原安太郎氏の親戚にあたる人の運動により、ドゥラードスに入植することになったという。
 当初、同船でドゥラードスに入ったのは14家族。そのうち4家族は、現在の共栄移住地から東に約35キロ離れたヴィセンチーナに入植した。残りの10家族は、入植予定地に配耕されるまでの間、現日本人会館から西に300メートルほどの距離にあった小学校で共同生活を行なった。
 「すでに土地は1ロッテ30ヘクタールと決まっていた。松原移住地のさらに奥のグロリアに借り住まいするはずで、あとは家を建てるだけだった」と飯山さんは当時を振り返る。その頃、飯山さんは18歳。すでに一人前の労働力として、期待されたいた。
 しかし、連邦政府払い下げの土地の許可は半年経っても下りない。
 「ミーリョ(トウモロコシ)、フェイジョンなど(食糧用作物の)蒔き付けの時期が迫っていた。入植許可が下りるのを待ってはいられなかった」
 飯山さん家族たち入植者はそれぞれ自費で土地を購入した。生活のためにも一刻も早く土地を整地しなければならず、「夜中2時、3時頃までかかって山焼きもしました」という状況の中、誰もが生きるために必死だった。
 当時、主産物のカフェは苗ではなく、種から育てたという。何年もかけて育てたカフェは大きいもので4メートルの高さにまで生長した。生産活動そのものも大変だったが、ブラジル人に帰化しないと銀行の融資が受けられない。「帰化することが難しく、(約1000㎞離れた)クイアバまで行かないと、手続きができなかった」という。
 一方で「最盛期には生産過剰で品質の良くないカフェは捨てたりしたこともあった」というが、そのカフェも75年の大霜で全滅した。
 「そりゃ、ショックでしたが、仕方がない。大豆やミーリョなど雑作に切り換えましたよ」
 「当初は5年したら儲けて日本に帰るという話もありましたが、その頃はそんな余裕の持てる時代ではなかった」という飯山さん。91年から1年間は日本で観光半分の出稼ぎ仕事も経験した。日本に行く前に父親の元春さんが亡くなったが、生前は「日本に帰ることより、共栄に定着する気持ちが強くなっていたようです」と飯山さんは、移民してきた父親の複雑な心境の変化を感じている。
 今年、移住地では雨季でありながら異常気象とも言える降雨の少なさにより、主作物の大豆が所々セッカ(乾燥)の被害を受けた。通常なら4月頃の収穫時期が場所によって早まり、今年の生産量にも影響を及ぼしそうだという。
 「75年の大霜以来の被害かも知れない」との声もある中、飯山さんは「豊かな土地、『共栄』で頑張ってやっていく」という父親の気持ちを引き継いでいる。

(4)

 2月22日の入植50周年記念式典の午後からの演芸会で和太鼓、母の会による大正琴の演奏に引き続き、日本語学校生徒たちによる劇「共栄入植50年のあゆみ」が披露された。
 同劇は昨年9月の県連のふるさと巡りでの訪問者にも披露され、好評を博している。日本語学校校長の城田志津子さんは「この劇を見ると、移住地の歴史が一目で分かるように工夫しました」と説明する。涙あり、笑いありの劇には、何回となく繰り返されてきた練習量の多さが、子供たちの堂々と演じる姿に裏付けされている。
 「いつのことだか 思いだしてごらん、あんなこと こんなこと あったでしょう」―。劇は子供たちによる童謡「思い出のアルバム」から始まる。
 (ドゥラードスから西に約80キロ離れた)イタウン駅に到着した移住者たちは、2月24日午後3時にバレイロン通り沿いにある小学校に到着。数日後、開拓予定地に向って男たちは50㎞山奥の土地に道づくりに。大きな荷物を車に乗せて(東方面の)ファチマ川まで18㎞、それから先は原始林の中の細道を20㎞歩いていったという。
 劇はドラム缶のお風呂に入る子供のシーンから晩のおかずを取るため畑に行くシーンへと続く。サツマイモの茎、へちまやマモンなど日本では食べたことのないものばかり。
 「それにしてもブラジルってところは野菜がないねえ。白菜やきゅうりのパリッとした漬物が食べたいねえ。生魚もないしねえ」―。
 入植当時の生活の不安感が如実に現れている。連邦政府から払い下げとなる土地の入植許可がなかなか下りず、日系人の通訳者に抗議する移民たち。
 「いつになったら土地がもらえるんだ。自分たちは騙されたんじゃなかろうな」と焦燥感が募る毎日。小学校に近いバレイロン通りに面した土地を購入することを決意する。
 圧巻は農作業の風景。家族が一丸となってコーヒーの蒔き付けなど農作業にいそしむが、自分の意志に関係なく連れてこられた子供たちは、「いつになったら生活が楽になるの」と両親を咎(とが)める。「みんな、我慢、我慢。コーヒーが実れば、車だって買ってやるよ」と諭す父親。会場には、当時を思い出して涙を流す人の姿も見られた。
 場面は変わって、雨の中、男たちが自転車に妊婦を乗せて7㎞の夜道をサンタ・カーザ病院へと向うシーン。「もうすぐだから頑張れ」―。移住地での慣れない生活が続く中、新しい命が誕生した。
 赤ちゃんを見に行く子供たち。「わあー、めんこい(可愛い)ねえ」とのセリフに会場がドッと沸く。城田校長によると最初は「可愛いねえ」というセリフだったのを何回かの練習後、北海道出身の入植者が多いことを考慮して、あえて「めんこいねえ」に変更したという。
 そして一大転機が訪れる。「1975年7月、雨が降って寒い日が続き大霜となった」とナレーションの声。舞台上は悩む人々の姿。
 「どうすればいいんだろう。頭が痛いよ」
 「ぼくは、カフェを引き抜いて大豆を作るよ。親父が育てた大事なカフェだけど、こうなれば仕方がないさ」
 「そうだ、開拓時代に戻ってみんなでやり直しだ」―。
 大型機械化農業への転換となった。
 「1984年、大豆の景気が良くなった」―。同年、日本人会の新会館が落成、日本語教室も新築された。89年にはゲートボール・コートも出来上がった。最終場面。ゲートボールを楽しむ人々。
 「おばさんの番だよ」
 「もう目が悪くてね。あまり(ゲートを)通らないよ」
 「でも、わたしら、ブラジルに来た頃、こんな暢気(のんき)な生活ができるなんて想像もできなかったね」
 「ブラジルに来てもう50年か。早いなあ。色々あったけど、やっぱりブラジルが一番いいね」
 会場では、ある人は微笑み、ある人は涙ぐんでいる。劇を演ずる子供たちの姿に、それぞれが自分たちの青春の姿を重ね合わせていた。(おわり)


前のページへ / 上へ

松本浩治 :  
E-mail: Click here
© Copyright 2026 松本浩治. All rights reserved.