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マツモトコージ苑
     2006年  (最終更新日 : 2026/05/05)
バストス日系社会(前篇)

バストス日系社会(前篇) (2026/05/05)  海外移住組合連合会が伯側現地代行機関のブラジル拓植組合を通じて、一九二八年六月十八日に移住地売買契約登記を完了・開設して以来、今年(2006年)で入植七十八周年を迎えたサンパウロ州バストス市。毎年開催されている「卵祭り」からも分かるように養鶏の町として栄え、また現在のブラタク製糸株式会社による生糸生産などにより、日本や欧州への輸出を中心にブラジル国内の供給も行われている。二年後(2008年)の移民百周年とともにバストス入植八十周年の節目の年を控えて、移民史料整備や史料館の修復作業が少しずつ進められている同地の現状を8回の連載で紹介する。

(1)

 バストス移住地の設立について、「バストス二十五年史」(水野昌之氏著)には「海外移住組合聯合会が一九二七年八月一日の設立せられ、同年十月下旬、故梅谷光貞氏が専務理事として渡来、移住地の建設に就いて調査研究。越えて一九二八年八月一日、移住地の選定に着手、六月十八日、バストス移住地購入の手続きを完了。爾来同日を以って移住地創立記念日と定められ、・・・」などと記されている。
 二九年四月には、ブラジル拓殖組合が設立され、支配人として故・畑中仙次郎氏が着任。同年六月にバストス移住地への第一回移民が入植している。それらと並行して、他の地域からの転入組や海外移住組合聯合会を通さずに、各地方自治体の組合が単独で移住組合員の送りだしを行っていたところもあったという。
 移住地の総面積は一万二千アルケール(約三万ヘクタール)。一ロッテ十アルケールごとに区切り、各区ごとに平均して「80×3000」メートルの縦長の区画割りを家長が、くじ引きで選んだと言われている。
 全盛時代の一九五〇年代、約千五百家族と言われたバストスの日系人口は、〇六年現在で約八百家族。バストス日系文化体育協会(大野悟朗会長)の会員数は、そのうちの四百五十人家族となっている。
 現在の文体協は、一九三〇年頃に「バストス自治会」として設立。その後、日本人会となったが、第二次世界大戦に突入後は敵性施設として閉鎖を余儀なくされ、各地の日系社会で戦後十年におよぶ「勝ち負け抗争」による血生臭い事件が発生したことは有名だ。特に、認識派(負組)でバストス産業組合専務理事を務めた溝部幾太氏や陸軍大佐だった脇山甚作氏がそれぞれ、一九四六年三月と六月にバストスとサンパウロで勝組だった臣道連盟の凶弾に倒れている。
 戦後の日本人会をつくりあげたのが、ブラ拓製糸専務やバストス連合日本人会会長などを歴任した故・谷口章氏。文体協関係者の話では、谷口氏自身、自分の子息を四人も亡くしてることから、戦後特に病院再開に力を入れたとし、当時の日本人会が病院(現在は史料館となっている)経営に着手していた事実があるという。
 一九六二年には、日本人会が正式登録され、七〇年代初頭には現在の会館が建設されている。
 現在、毎年六月十八日の入植記念日には、慰霊祭と敬老会が開催。「入植祭」そのものは町に出た日系子弟などが帰省できる七月に恒例の「卵祭り」と併せて実施されており、サンパウロなどに在住する同地出身者が一同に集まる時期でもある。
 「十五年ほど前からブンカ(文体協の俗称)の役員も一世から二世に移行されている」と話す文体協関係者。世代交代の流れの中で、二年後の入植八十周年を見据え、史料館修復作業などバストスの史料整備に力が注がれている。

(2)

 バストス日系文化体育協会(大野悟朗会長)の傘下団体として活動している日本語学校。その歴史は古く、バストスの史料によると「一九三三年には旧日本学校改め、公立公認学校と成る」とあり、入植当初から父兄たちが子弟の日本語教育に力を注いできたことが伺える。その当時の教師は日本人と非日系人がそれぞれ七人ずつ、生徒数は四百七十七人との記述がある。
 現在の日本語学校は、教師が三人、生徒数は約三十人。教師の一人は、JICA(国際協力機構)派遣の青年ボランティアという状態だ。
 教師歴五年の相原貴余志さん(七〇、三重県出身)は、元養鶏家だった。一九六〇年にバンデランテス産業組合の養鶏育種技師として二十四歳の時に単身渡伯。六〇年代後半からコチア産業組合員七人で共同経営を行っていた「グランジャ・グローリア」の出資者の一人として十万羽の鶏を飼っていた経験を持つ。
 しかし、九四年のコチア産業組合中央会倒産やブラジル経済変動などの影響を受け、二〇〇〇年には養鶏から離れざるを得ず、「裸一貫になってしまった」(相原さん)という。
 友人たちや日本で就労した子息からの援助で生活を立て直した相原さんに、日本語教師の声が掛かったのは二〇〇一年頃のこと。「文協から夜学の(日本語の)先生がいないと言われて、食うに困って始めたよ」と苦笑する相原さんだが、グロリア時代から日本語での代筆活動などをしていたことが、関係者の目に止まったようだ。
 相原さんが担当する授業時間は、平日の午後一時半から午後四時半までと、夜間の午後七時半から午後九時まで。他の二人の教師はそれぞれ、平日の月、水、金曜日に午前と午後に授業を振り分けている。
 〇一年当時、日本語学校に対して「日本式の礼儀作法や文化」など継承文化を期待する父兄が多かったという。しかし、「親の押し付けで来る生徒は続かない。今の子供は英語など様々な教室に通っており、最後に日本語学校に来ると疲れきってしまうんです」と相原さん。現在の生徒は七歳から六十二歳と幅が広く、日本への就労や県費留学など各種研修を目的として日本語学校に通う人がほとんどで、「目的があるために優秀な人材が育っている」という。
 今年四十七回目を迎えた卵祭りには、日本語学校の年間資金確保を目的に七、八年前からオムレツを作って販売しており、教師や生徒をはじめ、婦人部、青年部に交じって、日本語学校を卒業したOBも率先して手伝いに来るという。
 「日本語学校の生徒は真面目な家庭で育ち、素直で協力的な子供が多いですよ」と相原さんの評価も高い。
 元々、オムレツ作りは、同祭に出店していたアメリカの養鶏関連業者が「卵を宣伝するために加工品を販売すれば」との助言と実践により、そのノウハウを学校関係者が伝承。バストス在住の養鶏家が卵を無料で提供していることも大きく手伝い、今では卵祭りには欠かせない「名物」として定着している。
 今後の見通しとして相原さんは、「今のままでは正直、ジリ貧の状態ですが、日本に出稼ぎに行った人たちが日本文化を吸収してブラジルに戻り、コロニアの空洞化を埋める人材となってほしい」と期待感を込めており、日本語学校継続の必要性を実感している。

(3)

 毎年バストスで開催されている卵祭りに、日本庭園造園師として会場内の「卵富士」制作や庭園の装飾を行っているのが水川昇さん(七八、岡山県出身)。バストスから約八十キロ離れたサンパウロ州プレジデンテ・プルデンテ市に在住し、毎年この時期にはバストス市内の宇佐美ホテル(宇佐美宗一代表)に泊まり込み、今や同祭には欠かせない人物となっている。
 父親が庭師だったという水川さんは一九三〇年五月、三歳の時に両親らに連れられて「神奈川丸」で渡伯。戦前の日本移民の大半がそうであったように、親たちは「ブラジルに金の成る木がある。十年経ったら日本に帰る」との気持ちを持っていたというが、実現には至らなかった。
 水川さん家族は、モジアナ線リベイロン・プレット市のカフェ農園に入植。第二次大戦前に栽培していたハッカの景気が一時期良かった時代もあったが、終戦と同時に買い手が激減し、綿生産を行ったりもしたが、母親が死去。父親の哲雄さん(故人)は、当時七人ほどいた子供の教育面を考えて、一九五〇年に家族で現在のプルデンテ市に移転したという。
 哲雄さんは、終戦後の勝ち負け抗争も落ち着いた六〇年頃からプルデンテ市周辺の寺院の庭園づくりなどに携わるようになり、一九八九年に八十九歳で亡くなるまで続けてきた。昇さん自身は、同時期の六〇年代から石材工場の経営者として約二十年にわたって働いたが、インフレなどの経済不況により会社運営も思わしくなくなり、父親が亡くなる前から同じ庭師としての仕事を引き継ぐようになっていた。
 「父親がやっていた後の庭の手入れをやれる人がいなくなり、小遣い稼ぎにと始めたのですが、ブラジル人の財閥の家の庭仕事をした時、その人に英語で書かれた日本庭園の本を持ってきて指示された。『ブラジル人だから(日本庭園のことが)分からないだろう』という、いい加減な気持ちでやっていたら、自分が恥をかくと思いました」と八九年に日本を訪問し、本格的な造園技術を学んできたという。
 卵祭りの装飾には八七年頃から携わってきた水川さんは「始めた頃に、宇佐美の婆ちゃん(宇佐美宗一氏の母親)から、『おじさん、日本庭園を造ってくれるなら、宿代いらないから私のところに泊まったらいいよ』と言われて嬉しくなってね。自分の母親のように思いましたよ」と当時の記憶を甦らせる。 
 今年(2006年)の卵祭りで造ったミニ庭園は、自身が生まれた岡山県に近い「瀬戸内海を象(かたど)った」もので、「自分にとってもまずますの出来」と目を細める。また、現在の卵祭りの象徴にもなっている「卵富士」は、水川さんが六年ほど前に考案して制作。九千個近い卵を使用し、「山頂の雪の部分を造るのが難しかったが、そのお陰で、今では『富士山の爺さん』と言われるよ」と充実した表情を見せる。
 今年はその卵富士も、ミニ庭園とともに会場の隅の方に追いやられ、「何か日本文化色が薄まってきた感じもするね」と寂しそうに笑う水川さん。以前は会場の中央に鳥居を作り、畳を敷いた日本間で茶の湯のデモンストレーションが行われるなど、大々的な装飾が詰めかけた人々の注目を集めていた。
 庭師としての仕事で、プルデンテ市周辺地域をはじめ、遠方ではパラナ州カスカベル、聖州ジャウー、リベイロン・プレットなどにも足を運んだ経験のある水川さんは、バストスでは卵祭りだけでなく、現在の史料館前にある日本庭園内の「富士山」をも手がけている。
 「なぜ富士山なのですか」との質問に、「日本人の心に響くものを造りたかった」と説明する。今でも、剪定(せんてい)が難しい「松の木」の手入れだけは水川さん自身が行っているという。
 息子たちはサンパウロなどの都会へと出てしまい、もはや造園業を継ぐこともないというが、水川さんは「楽しみ半分で、自分が好きだからやっている」と今後も庭師としての活動を続けていく考えを示している。

(4)

 「私は細かい数字のことや自分の自慢になるようなことを言うのは、もっとも嫌いなことなんですよ」―。バストス市のみならず、ブラジルで一番の養鶏家と噂される藪田(やぶた)修さん(六五、二世)は、今回の取材に際して開口一番、強く言い放った。
 そのため、藪田さんが所有する鶏の詳細数は分からないものの、周りの人々の話では、四百万羽とも五百万羽とも言われている。
 藪田さんはバストスの隣町ヤクリ市イタウーナで七人兄姉の中の六番目(次男)として生まれた。養鶏そのものは父親が一九四七年頃に始めたが、当時はわずかに二、三百羽を飼っていたに過ぎず、その合間に養蚕を行っていたという。
 藪田さんが十一歳の時に父親が死去。男兄弟三人で父親の後を継ぎ、五〇年代半ばから本格的に養鶏をやり始めた。当時のバンデランテス産業組合に卵を出荷するため、馬車を使って町まで運んだことを藪田さんは今も鮮明に記憶している。
 「今はもう、馬車を使って卵を持って行ったなんていう人はいないし、同年代で養鶏をやっている人も、ほとんどいなくなりました」
 養鶏の町として栄えたバストスは、約三十年前には二百四十家族もの養鶏家がいたというが、現在では約七十家族と三分の一以下に減少している。
 減少した理由として藪田さんは、「三十年前は『こんな仕事を息子には継がせたくない』という人が多く、その息子たちはサンパウロや街の学校に出ていってしまいました」と説明。また、八〇年代に入って、電話や道路などの通信技術向上とインフラ整備が行われ、大手商人も出始める中、「それまでの組合そのものの必要性が無くなってきた」とも。
 しかし、「組合があったからこそ、今の自分たちがある」と藪田さんは、当時の組合の世話になったことも忘れてはいない。 
 現在、バストス以外にランシャリア、ケイロス、マット・グロッソ州プリマベイラなどにも鶏舎を所有し、総従業員数は八百人にも上る。時代の移り変わりに合わせて鶏舎にコンピューター・システムによる大型機械を導入。自ら鶏舎を見て周り、常に次のことを考えているという。
 今ではピラシカーバ農大などを卒業した息子二人と甥の二人、計四人の後継者が育っており、藪田さん自身もまだ現役を守りながらも、少しずつ家督を譲りつつある。
 「子供が小さい時から養鶏のことを好きになるようなことは意識してやってきましたね。そのため、子供たちも自然と、やる気になったようです」と笑う藪田さんは、後継者ができたことを「そりゃあ、嬉しいですよ」と素直に喜ぶ。
 叩き上げの形で養鶏を続けている藪田さんにとって、最大の敵は「贅沢(ぜいたく)さ」だという。「人間は裕福になって暇ができると、おかしな事を考え始め、仕事に対しての熱意が無くなる」と。
 「私たちが養鶏を始めた時には、寄り合いに行くと周りは親父(オヤジ)さんの年齢の人ばかりでした。それが今では、息子の代に任せている人が多く、自分のように三世代見てきている人間は他にはいません。時期が良かったこともあり、私自身もいずれは息子たちに引き継ぎますが、まだまだ現役として活動したい」と藪田さんは、さらなる意欲を見せる。
 ブラジルにはまだ入っていないが、世界中を震撼させている鳥インフルエンザの影響について藪田さんは、「今までもニューカッスルなど様々な病気の被害を受け、その度に苦労して眠れない時もありましたが、何とかして乗り越えてきました。心配ないとは言えませんが、心配してもしょうがないでしょう」と話す。
 「息子たちは『ウチのオヤジは変わり者』と思っているかもしれませんが、仕事のことを思って寝て、夢見て、常に考えていなくてはダメになります。数を増やすばかりでなく、品質面の向上を次の世代には望みたいですね」と藪田さん。徹底した考え方が、現在の立場を支えている。(つづく)


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