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バストス日系社会(後篇) (2026/05/11)
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バストス日系社会の草分け的存在である本田たね子さん(九一、岡山県出身)。一九三〇年、十五歳の時に、同移住地入植第二船目となる「博多丸」で家族八人の一員として渡伯した。 家族は、故郷の岡山県で養蚕半分、農業半分の生産活動を行い、ブラジル行きは家長だった兄夫妻が決定した。そのために土地を売って一年間の供託金を積み、ブラジル拓殖組合事務所に預けていたという。 「『行け行け同胞、海越えて』でブラジルに来ましたけど、考えてみれば結局、私たちは棄(す)て移民でしたわ」と語る本田さんだが、「でもコロノ(契約雇用農)に入った人たちのように私たちは苦労はしていません」とも。 バストスの第一グロリア地区に入植した本田さん家族は、同地でカフェ生産に精を出したが、砂地のためカフェには向かなかった。 「六年目にはようやく収穫の時期を迎えたんですが、兄が『これじゃ、とてもやってはいけない』と言ってバストスの町に出たんです」 町に出て始めた商売が、同地で最初のソルベッテ(アイスクリーム)屋だった。バストスから約四十キロ離れたランシャリーナで営業していた人にやり方を教わり、繁盛したという。 二十歳になった本田さんは、夫の正雄さん(故人)と結婚。正雄さんはタクシーの運転手などをやりながら家計を支えた。 渡伯後、五、六年して日本に一時帰国することができたという本田さん家族は比較的裕福な暮らしぶりだったことが伺えるが、戦後の「勝ち負け抗争」に巻き込まれた。 各種イベントの司会などを自ら率先して引き受けていたという正雄さんは、当時から人の世話が好きで、バストス産業組合から情報を得て記事を書いては、人々に配って歩いた。 そのため、日本の情報も逸早く入手できた。ラジオを持っているだけで警察に没収された時代、布団の中にラジオを隠して日本の情報を聞いては筆記していたという。そのことが、「臣道連盟」に狙われることにつながった。 認識派(負組)でバストス産業組合専務理事を務めた溝部幾太氏が臣道連盟の凶弾に倒れたのが、一九四六年三月。「夜になって『ドーン』という音が聞こえたかと思ったら、ルア(道)の上の方から『溝部さんが殺されたー』という声が響き、本田(正雄さん)が外に飛んで出ようとしました。その時、私は『あんたも出ていったら殺される』と言って必死で止めました」と、本田さんは溝部氏が殺された時の生々しい話を聞かせてくれた。 暗殺事件が発生した後の或る日、一人の子供が「おじさん、これ」と言って正雄さん宛に木箱を持ってきた。瞬時に、それが爆弾であることを悟った本田さんは、「開けちゃ、ダメ」と叫び、蓋(ふた)の隙間から中身を確認したところ、桃色の火薬が詰まり、注射用のゴムで固定されていたという。 「あの頃はまだ長男も十歳くらいで、家族に何かあってはと、本当に恐い思いをしました」と本田さんは当時のことを今も鮮明に覚えている。 現在、三女の柴田ニーナさん(六〇、二世)と同居している本田さんは毎朝五時半には起きて、家から程近い文協会館横にある公園でラジオ体操を行い、週二回ある盆踊りの練習が何よりの楽しみだという。最近、転倒して背中を痛めたために練習を休んでいるというが、「早く良くなって盆踊りに行きたい」と表情は明るい。 家族や知人たちからの暖かい愛情を受けて生活している本田さん。「今は幸せそのものですよ」と笑顔を見せた。
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養鶏とともにバストスを支える大きな産業となっているが、ブラタク製糸株式会社(天野アントニオ堯夫社長)だ。 「世界で一番品質の良いのが、ブラタクの糸と呼ばれています」と同社経営審議会委員の一人である丸山栄さん(七三、長野県出身)は胸を張る。 同社が発行している「ブラジル蚕糸業の沿革と現状」によると、バストスに入植した移住者たちは砂地土壌のため永年作物のカフェ栽培が芳しくなく、一九三〇年頃に「適性産出物の模索の一環として、繭(まゆ)の生産販売を試みた」とある。 三三年には、ブラ拓(ブラジル拓植組合)が製糸部門を開設して、日本から専門の機械を導入。四〇年に「ブラ拓製糸有限会社」として、組合から独立。五六年にブラタク製糸株式会社となり、現在の「ブラタク」に至るという。 第二次世界大戦勃発により、枢軸国側の日本、イタリアからの生糸補給を絶たれた連合国側の求めにブラジル政府は、国内での繭、生糸増産を奨励。養蚕先進国のイタリアと日本からの移民がブラジルに移住していたことで同産業は大きく発展した。 しかし、終戦後は連合国側の軍需景気終焉により、生糸の取引は激減し、膨大な在庫を抱え込んで繭値は暴落。また、パラシュートなどの原料となる軍事物資への生糸使用などで、「養蚕は敵国に資する産業である」とし、日本人同志での蚕室焼き討ちなどの事件も相次いだという。 一九五一年、敵性国家資産凍結令の解除により、ブラタクは自己の経営理念に戻った。翌五二年、蚕糸業再建の目的でパウリスタ養蚕協会が創立。五三年に同協会が日本からの養蚕移民導入計画を聖州政府に提出し、可決した。五四年九月に第一陣の四十七家族が到着以来、五九年までに合計二百家族の導入が実施。第二次は日本側の杜撰(ずさん)な人選と日本の経済成長による移民熱の低下などで六十一家族のみに止まったが、日本国内での失業者対策と戦後移民再開の一つのきっかけとしての功績は大きかったという。 この時期、ブラタク製糸は伯国蚕糸業発展を目的として、現・経営審議会名誉会長の谷内利男氏をはじめ、日本から学卒の技術者を受け入れた。養蚕が盛んな長野県の蚕糸大学を卒業している丸山さんは、この技術者受け入れ制度により谷内氏より呼び寄せられ、一九六〇年に渡伯している。 その後、六〇年代の日本の経済成長により、生糸の需要は激増し、七〇年代には日本向け生糸生産を目的として、日本の製糸企業六社がブラジルに進出。伯国蚕糸業は、さらに活気づいた。 しかし、日本の生糸需要の減少と一九七四年に発令された「一元輸入令」などの影響により、地場製糸会社の消滅とともに、日本からの進出企業もブラジル・コストへの戸惑いなどから撤退を余儀なくされた。 ブラタクではその間、生き残り策として、日本の製糸会社と商社との合弁会社を設立。さらに、八〇年には、ブラジルに適した新蚕品種の改良に成功し、高品質生産に重点を置いてきた。 現在、ブラジルの製糸業界はブラタク製糸が主流を占め、カネボウ撤退後にパラナ州に進出した「藤村製糸会社」と、サンパウロ州ガリアで小規模の製糸絹織物を扱う「ベラルジン社」のみとなっている。 ブラタク製糸自体も、近年のリストラ(人員削減)など苦しい局面を迎えたこともあったが、高級ブランド品として主に日本やヨーロッパに向けて輸出しており、品質面で大きな信頼を受けている。
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ブラタク製糸は現在、バストスをはじめ、ロンドリーナ(パラナ州)、ドゥアルチーナ(サンパウロ州)にも工場を持つ。 従業員数は全体で約千六百人。バストス工場では基本的に午前五時から午後九時まで四時間ずつ、四交代制をとっているという。 バストス工場の取締役も務めた経験のある丸山栄さんは、七年前に役員を引退し、現在は経営審議会会長で同委員の一人だが、前述のように一九六〇年に技術者として呼び寄せられ、知識と実力を兼ね備えた人材として今も頼りにされている。 「ブラジルに来た頃は、日本人同士による勝ち負け抗争のしこりがあり、まだ『日本が勝った』と言っていた人もいた」と丸山さん。日本で結婚した同郷(長野県)の夫人を連れてブラジルに渡ったが、「(バストスには)日本人が多かったが、長野とは気候が全然違う。私は仕事を夢中でやるしかなかったが、家内は一年間はホームシックにかかり病気になったね」と当時を振り返る。 現在、製糸業界は中国が実に九〇%のシェアを占めている。二番目にブラジルとなっているが、輸入ものの安価な生糸がブラジル国内に入ってきているほか、密輸品も多いのが現状だという。 品質面に重点を置くブラタクは、こうした状況の中で消費者から大きな信頼を得ている。ブラタクの生糸は六〇%が日本、二五%がヨーロッパ、一〇%が日本以外のアジア諸国への輸出で、伯国内消費は五%となっている。特にヨーロッパでは、ブランド品の「エルメス」にブラタクの生糸が使用されており、高級品としての信頼性と価値も高い。また、チョゴリやサリーなど民族衣装に使用される韓国、インドなどアジア諸国への輸出も少なくない。 一方で、最大の輸出先国である日本で、着物の消費量が落ちていることの影響が大きいという。「若い人が着物を着なくなり、(需要は)主に芸能人に限られてきました」(丸山さん) それらとともにブラジル国内の養蚕農家が減少していることも大きな問題だ。ブラタクでは、ブラジル政府が実施している小中農支援対策の一環として、養蚕業の普及を積極的に進めている。 やり方によって、年に七、八回の飼育可能だという養蚕は、小中農家にとって手頃な換金作物として見直されており、坂地など小さな土地面積でもできる。そのため、近年では土地無し農民(MST)の適作物として養蚕が普及しているという。 六〇年代にはバストス周辺のマリリアやバウルーなどに多かった養蚕農家は、七〇年代から北パラナのノーバ・エスペランサなどにも普及。現在では、ピタンガ、ウムアラマなどにも広がり、パラナ州だけで養蚕農家の数は八〇%を占めている。 特にパラナ州は小中農支援に熱心で、融資面での援助を行うことで、税金の一部が市や郡に還元される仕組みになっているという。ブラタクのデポジット(繭の荷受場)はパラナ州以外に南マット・グロッソにも広がっており、養蚕農家にとってもブラタクにとっても互いに利益になることが、大きなメリットだ。 また、ブラタクでは、一九七五年にバストスに共同稚蚕飼育場を開設して以来、現在は七か所に同飼育場を所有しており、安定した蚕作りと蚕種供給ができるようになったという。 二〇〇六年度の繭生産量は約八千トンが見込まれている。史上最高だった一九九二年度(約一万九千トン)から生産量そのものは下降線を辿っているが、品質のさらなる向上とともに養蚕農家の普及拡大に力を注いでいる。
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丸山栄さんにブラタク・バストス工場の内部を見せてもらう。 事務所の壁の上部には、先代社長の故・天野賢治氏と、副社長だった故・谷口章氏の写真が飾られている。そこを横切り、工場内へと進む。 「現在は蚕(かいこ)は飼わない時季です」(丸山さん)として、工場では生きたままの蚕の姿は見られなかったが、繭(まゆ)を生糸に紡いでいく工程を見せてもらうことができた。生糸が出来あがるまで実に多くの工程があり、人手も要ることが分かる。 丸山さんの説明では、荷受した繭は乾燥機に入れられ、一度倉庫で保管される。その後、コンベアに乗せて選繭(せんけん)された繭は自動糸取り機へと運ばれ、煮沸作業が行われるという。 繭を湯で煮て糸を紡ぐため、場内は蒸し暑さが立ち込める。頭にネットをかぶり、防音用のヘッドフォンを耳に付けた女性たちが黙々と立ち働いている姿があった。また、忍耐力も必要な作業だ。訪問した時季は冬場だったが、夏場には四十度を超える時もあるというバストス。室内での作業がいかに重労働かが分かる。 「女性は一般的に手先が器用で、男性よりも同じ作業を続けてできるんです」(丸山さん) 糸を繰り、製品化されるまでの工程と並行して、「副産」作業も実施されている。最高級品としての生糸以外に、繭から出る蚕(かいこ)をはじめ、繭殻、糸くずなどが百%有効利用されている。 糸くずは再生されて下着やネクタイの生地用に使用され、乾燥された蚕のサナギは魚や鶏のエサとして粉状に加工され、日本などに輸出されているという。 工場を見学させてもらった際に覚えのある独特に匂いが漂っていたが、蚕のサナギが魚などのエサになると聞かされて納得した。粉になる前の乾燥した蚕のサナギを味見させてもらう。「薄味の乾燥桜エビ」のようなシャリシャリした舌触りで、見た目の昆虫的グロテスクさとは裏腹に結構イケる味だった。 さらに、ブラタクでは蚕の優良品種保存のため、六十六種類の中から四種類を厳選し、「原蚕飼育」により、種(蚕)を作っているという。「雑種強勢」として病気に強い種を作るため、原種から三代目の蚕を「普通種」として使用。こうした蚕からは、一つから平均で千二百メートルも取れる繭ができ、良い種を交配させてさらに質の高い繭づくりが繰り返されている。 ブラタクが、いかに高品質の繭づくりに力を入れているかは、「経費の七割を繭づくりに使用している」という丸山さんの言葉からも伺える。 七〇年代半ばに進出していた日本企業がブラジルから撤退し、不況を極めた八〇年代を乗り越えてきたブタラク。その背景には、二代目として引き継いだ現社長の天野アントニオ氏や谷口滋副社長が、日本人である先代の影響を受けて地道な活動を踏襲して続けてきたことにある、と丸山さんは大きく評価する。 「日本の技術や機械を導入してきたが、単に導入だけした訳ではなく、ブラジルに合ったやり方を常に試行錯誤して続けてきた」と丸山さん。生存競争の激しい業界の中で、日系社会の歴史とともに歩んできた「ブラタク」を守り通し、今後の生き残りをかけて更なる向上を図っていく考えだ。(おわり、2006年7月)
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