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マツモトコージ苑
     2009年  (最終更新日 : 2026/06/17)
北伯のゴム移民(後篇)

北伯のゴム移民(後篇) (2026/06/01) (8)

 現在もパラー州サンタレン市近郊に住んでいる岡田隆典さん(七六、宮崎県出身)。宮崎県では、地元の産業開発青年隊として、観光道路の開発などを行なっていたという。
 次男である隆典さんは「ブラジルに来るとは考えてもいなかった」が、長兄の昭典さん(二〇〇七年七十九歳で死去)がブラジル行きを熱望。家長となり、父母、兄弟ら合わせて六人で一九五四年十二月に神戸港から海を渡ってきた。渡伯当時、二十二歳だった。
 入植した当時のベルテーラについて「ゴム園が本当にきれいだった」ことが深い印象として残っている。
 隆典さんは、宮崎県時代に産業開発隊の仕事以外に夜学に通い、測量や修理技術の勉強をしていたこともあり、機械分野を得意としていた。そのため、ベルテーラでは、総支配人の越智栄(おち・さかえ)氏から「ジーゼル・エンジンに詳しい人は居ますか」と問われた際、一番に名乗りを上げた。
 仕事内容は、採取されたゴム液を遠心分離機にかけ、濃度をより濃くすること。午前八時から午後四時までで、機械が止まった時に修理を行なう。技術職であったため、他の人よりも若干給料が良かった。夜は特別に小学校でポルトガル語を教えてもらい、四か月間通ったという。
 比較的安定した生活が続いたが、強制退去命令により、生田家族、千葉家族とともに岡田家もアレンケールへと移ることに。
 「自分がもし家長なら、条件が違うとして、日本政府とケンカしていたと思います」
 隆典さんたちは仕方なく、五五年九月にアレンケールに転住。高拓生(こうたくせい)の沢木さんという人の世話になり、見よう見真似で当時相場の良かったジュート麻栽培を行なった。 
 「胸まで水に浸かってジュートを切っていると、時々電気ウナギが水中を通り、電気ショックで足にビリビリ響くんですよ」
 食べ物は、米をはじめ、カピバラ(河豚)やピラルクーの干したものなど結構何でもあり、「肉体労働のため体力を付けなければと何でも食べましたね」と隆典さんは当時を振り返る。そうした生活を一年間続け、五六年十一月には生田家の娘である栄さん(六九)と結婚。弟で三男の慶典さん(七一)は、栄さんの長姉であるハマ子さん(七三)とそれぞれ結ばれ、同じ日に結婚式を行った。
 住んでいた場所は乾季になると土地が悪くなるため、隆典さんは結婚を機にアレンケールから約五キロ離れたマッキーという川沿いの場所に転住。同地で豚を三百頭ほど飼い、米やマンジョカ芋などを植えた。
 一年半ほど経った時にアレンケールの農事試験場長の呼び寄せにより、同試験場で養豚や養鶏の整備を任され、生活も安定しだした。
 ある時は、試験場の上司が持っていたタパジョス川にある金鉱の土地調査を依頼され、前金として四キロ分の「黄金」の値段分を手渡されたことがあった。隆典さんの人間性が、ブラジル人に信用されていた訳だ。
 六二年頃、子供の教育のためサンタレンの町に出て、父親や兄たちは野菜作りを行ったが、隆典さんは技術を生かし、町でラジオやTVの修理屋を始めた。日本でやってきた技術を、ブラジルでも生かすことができた。
 子供たちが大学を卒業し、独立するとともに隆典夫妻は、サンタレンの町から十三キロ離れたエストラーダ・ノーバに移り、ピメンタ(コショウ)をはじめマラクジャ(パッション・フルーツ)やランブータンなどの熱帯果樹を植え、現在も同所に住んでいる。
 二〇〇一年からは、ブラジルの原点であるベルテーラの土地について友人でもある市長から「何でも欲しいものがあれば相談に来たら良い」と言われ、同地に土地を所有。クプアスーやグラビオーラなどの熱帯果樹を植えている。 
 「ブラジルでは苦労するというけれども、食べるものが無いという意味では日本の戦後の方が苦しかった。ここは食べることだけはできるから」と隆典さんは、充実した表情を見せていた。

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 四年ほど前まではベルテーラで旅館(ポザーダ)を経営していた岡田慶典(七一、宮崎県出身)・ハマ子(七三、山形県出身)夫妻。現在は、サンタレンに日本食レストラン「瑠美(るみ)」を経営する長女夫妻と同居している。店名は長女の名前から取ったものだ。
 ハマ子さんは、ベレンに在住する汎アマゾニア日伯協会会長の生田勇治氏の父違いの姉にあたる。 ハマ子さんの父・横山栄輔さんは、ハマ子さんが三歳の時に心臓麻痺で亡くなり、母・まささんは東京の弟を頼って山形から東京へ。しかし、戦後また山形へと戻り、その後、まささんは従兄妹だった生田勇さん(二〇〇五年、八十八歳で死去)と再婚した。
 勇さんは化学肥料の卸問屋を始めたが、海外に出たいという希望があり、当初はパラグアイに行くはずだったが、「海が無いのは大変」だと考え、山形県庁に応募が出ていた「ベルテーラ移民」の募集要項を送ってもらった。
 募集要項には、「十三歳以上は仕事に就ける」という条件があり、家族八人のうち、四人が働ける構成家族ができるとし、ブラジルに行くことを決意。ハマ子さんの祖父にあたる横山家からは猛反対されたが、最終的には押し切った。
 ハマ子さんには「将来は法律関係に進みたい」との夢があった。夜の定時制高校に通い、山形大学を受験して「二番で受かっていた」が、ブラジル行きが決まったために断念したという。
 ハマ子さんが渡伯したのは十九歳。一九五四年十二月「ぶらじる丸」で神戸港を出港し、翌五五年一月にベレンに着いた。その際、募集要項と船内で聞いた条件が全然違ったため、「それぞれの家長が、船を降りるか降りないかで三日ほどもめた」(ハマ子さん)。
 生田家は、日本で家財道具をすべて売って携行資金を作ってきたため、今さら日本に戻るわけにもいかない。他の五、六家族がベレンで降りたのをきっかけに、自分たちも下船。「バロン・デ・タパジョス」という名の薪船に乗り換え、ベルテーラに到着したのが同年の一月二十一日だった。 
 「ピンドバウ」と呼ばれる港からベルテーラに上陸。当時はまだ家も無く受入態勢が出来上がっておらず、とりあえず学校に住んでいた。生田家ら三家族はその後、セスナ用の飛行場の待合室を三つに区切り、生活の拠点を置いた。その一方で、ベルテーラの設備は意外にも整っていた。電話や病院施設もあり、病院にはレントゲンもあったという。
 ベルテーラでの仕事はゴム採取が最も重要な仕事だが、そのための実技試験が必要だった。技術職なので、他の仕事よりも若干給料も良かった。
 入植して一か月ほどして、二十歳前後の男性が何人か選ばれた。五日間練習して、三日間実地試験を行ない、ゴムを効率良く採取するためには(ゴムの樹の)薄皮を一枚残さなければならなかった。手先が器用でなければできない仕事だが、家長の勇さんが一番上手だったという。
 ハマ子さんの担当は野菜栽培で、ネギ、キュウリ、ナスなど食糧用の野菜を植えた。それ以外に、ハマ子さんは年齢が比較的若かったため、労働者の出欠簿をポルトガル語で付ける仕事などもさせられた。
 仕事をした分、月給ももらえ、数か月ほどが過ぎた時だった。支配人の越智氏から緊急召集がかけられたと思うと、「ベルテーラでは今日限り仕事ができない。ここから出て行ってくれと言われた」と、いきなりの退去命令を受けた。

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 退去命令を受けた時に問題になったのが、受入責任者だった辻小太郎氏に渡伯の際に預けていた、携行資金の利子の支払いを要求されたことだった。
 辻氏から「ブラジルでは銀行に預けた場合、利子を払わなければならない」と言われ、入植者たちは「そんな、馬鹿なことがあるのか」と反論したが、どうしようもなかった。
 結局、携行資金は返してくれたが、辻氏から「自分たちで経費を払ってもらわなければならないが、君たちの行きたいところに行きなさい」と言われた。
 勇さんは当初アクレに行く予定だったが、支配人だった越智氏から「あそこは梅毒もあるし、やめた方が良い」と言われ、三家族一緒にアレンケールに転住した。
 アレンケールに移って慣れないジュート栽培に従事したが、一年目は値段が良く「すごく、儲けた」(ハマ子さん)という。その間、ハマ子さんは五六年、同船者で岡田家の三男・慶典さんと結婚した。
 二年間、同地で暮らしたが、生産物が町での値段に比べてかなり低く、仲買をしていた同じ日本人との間で言い争いとなった。弟妹たちの教育の問題もあり、「ベルテーラに戻ろう」と五七年一月頃にアレンケールを出た。
 ピンドバウ港から一番奥側となる「ベルテーラ10地区」に何とか入ることができ、その後、「8地区」でゴム切りの仕事を始めた。同地に戻ることができたのは、勇さんのゴム切りの腕前があったからだという。
 しかし、月給が遅配し、肉などの物はあるのに金が無い状態が続いた。迷った挙句、五九年八月、家族でサンタレンに出ることになり、大衆食堂を始めた。母親のまささんが日本の実家で食堂をやっていた経験を生かし、ハマ子さんは母親からさまざまな料理を習っていたのが、役に立った。
 慶典さんも料理の勉強をしたが、「誰とでも友人になれる性格」(ハマ子さん)で、ブラジル人社会とも顔が広かったことが、効を奏した。
 慶典さんは、サンタレンとクイアバを結ぶ道路作りを担当する陸軍関係者に呼ばれて、兵士用の野菜類の仲買の仕事を依頼された。「野菜作りなら、同じ日本人でもっと大量にやっている人がいる」と知人を紹介したが、その人は続けきれず、結局、慶典さんが仕切ることになった。
 「道路が無い時代、飛行機に野菜類を積んで現場に投下するんだから、今じゃ考えられないよね。その仕事を六五年頃から五年ほど続けた」(慶典さん)
 その後、食堂の仕事は一時中断し、ボーキサイト会社からも野菜作りの依頼が舞い込み、仲買以外に自身でも葉野菜づくりをし、同社の専用機で「パラー州内を一週間に一回は現場に飛ぶ」生活を七八年頃まで行なった。
 仕事ぶりが知人を通じて伝わり、次から次に仕事が入った。マカパー州の商社から金の採掘に関わるあらゆる品物の輸送の仕事の依頼もあったが、JICAから融資を受けてピメンタ作りもやっていたこともあり、多忙過ぎて手に負えなかった。
 八二年に現在のレストラン「瑠美」をサンタレンの幹線道路沿いにつくり、その間も野菜作りなどを続けた。
 九九年にはベルテーラの郡長に頼まれ、渡伯後三回目となる同地に転住。勇氏の療養も兼ね、旅館(ポザーダ)と食堂業を行なった。その後、勇さんは〇五年六月に八十八歳で亡くなり、二か月後にハマ子さんたちはサンタレンに戻ってきた。
 ハマ子さんは、最初の退去命令でベルテーラを出された時のことを晩年の勇さんに聞いたことがあった。「どうして、あの時、辻さんに条件が違うと強く抗議しなかったのよ」と。勇さんからは「過ぎたことは、しょうがないだろ」との答えが返ってきたという。
 「義父(勇さん)は軍人あがりだったので、見た目には取っ付きにくいけれど、本当は真っ直ぐでとても良い人でした。『恥ずかしい思いをすることなく、しっかりやれ』とよく言われましたね」
 ハマ子さんの心の中には、今もベルテーラでの思い出が残っている。

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 ゴム移民たちの当時の話を聞いた上で、実際にベルテーラに住んだ経験を持つ岡田慶典・ハマ子夫妻に同地へと、車で連れて行ってもらった。
 運転手は、夫妻の長女・瑠美さんの夫であるアジミールさん(五三)。サンタレンの街から、マット・グロッソ州のクイアバへと続く街道を南下する。
 街道の両側には、ところどころ露店が立ち並び、牧草や再生林が生い茂っているのが見える。ハマ子さんの話では、以前はマット(原始林)しか無く、「バスを捕まえて乗るのにも一日がかりだった」という。
 四十五分ほどで、ベルテーラの入口に到着。入口の前には、ゴム園造成当時に使用されたと思われる臙脂(えんじ)色に塗られたブルドーザーがモニュメントとして置かれ、薄緑色のオベリスコ(慰霊塔)風の表示塔に「SEJA BEM VINDO(ようこそ)」の文字が見える。その下に描かれているベルテーラ郡のマークには、造成当時と思われる「1934」の数字が記されていた。
 ベルテーラは、今年(2009年)一月でサンタレン郡から分離して十二年となるという。敷地内は碁盤の目のように区画されており、道は「エストラーダ(道路)1」「エストラーダ2」などのように、それぞれ番号で区切られ、道路によって土道と舗装されているところがある。
 ベルテーラのメイン・ストリートになっている「エストラーダ1」は、舗装が敷き詰められ、その両側には当時、フォード社が建てた木造の平家が並んでいた。
 道路の向かって左側には、十五メートルほどの高さに銀色に光る給水塔があった。ブラジルでは見かけない、小型ロケットのようなモダンな形が、北米系の会社が造った移住地であることを偲ばせる。
 「水道が四、五軒に一つはあった」(ハマ子さん)というから、渡伯当初の日本移民の多くが井戸水を掘って生活してきたことを考えると、確かに同地が設備的に恵まれていたことが分る。
 道路を突き進むと、左側に「郡役所」が見えてきた。この建物が当時のゴム園の事務所で、ハマ子さんたちも働いていた場所だ。
 役所の正面入り口には、ベルテーラ郡役所のアルファベットの下に、「PALACIO DAS SERINGUEIRAS(ゴム宮殿)」と書かれた看板が掲げられていた。
 車を降りて役所に入ると、岡田夫妻の知り合いたちが二人に笑顔を見せ、握手を求めてきた。役所の建物も当時のままの木造建てで、深緑と白色のペンキで表面を塗ってはいるものの、壁面の木の質感が往時を彷彿とさせる。
 アジミールさんが、役所の受付にベルテーラ全体の見取り図を頼みに行ってくれた。その間、岡田夫妻は知人たちと談笑している。同地で旅館をやっていたこともある二人だが、夫妻の人柄がブラジル人を惹きつけていたようだ。
 役所の裏側には、幹の直径が七、八十センチもあるゴムの樹が今も残っている。生い茂った緑の葉が強い陽射しを遮(さえぎ)り、陰に入ると心地よい風が吹いてくる。
 ゴムの幹には、樹液を採取したと見られる斜めの傷跡が残されており、ハマ子さんが採取のやり方を身振り手振りで教えてくれた。

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 ゴムの樹の場所から道路(エストラーダ2)をはさんで五十メートルほど歩くと、岡田夫妻が九九年から〇五年まで旅館をしていたという建物が見えてきた。現在、この建物は郡の教育文化施設として使用されており、図書館も設備されているという。
 関係者に無理を言って中に入らせてもらう。平屋だが、天井が高い。がっしりした造りが目に留まった。少し大きめの部屋は「小講堂」となっており、職員たちがクリスマスに向けたイベントの準備などを行なっていた(同地を訪問したのは、二〇〇八年十一月下旬)。
 ハマ子さんが以前、ここに住んでいたことを話すと、職員たちも快く迎え入れてくれた。ハマ子さん自身も数年前との内部の変わりように驚いた様子だった。
 アジミールさんの運転で次は、ハマ子さんたちが五五年当時、最初に入ったというセスナ用飛行場の脇にある家に連れて行ってもらう。
 その間、岡田夫妻から改めて、当時のベルテーラの話などを聞く。
 「私たちが最初に入った頃から、すでに道路には砂利が敷いてあってね。土道だったけれど、(雨が降った後)ぬかるんで動けないということはなかったね。病院も救急車もあったし、住むには良かったよ」
 そうこうしているうちに、飛行場脇の家へと到着。ひときわ開けた空間の中央には土道の道路が続いている。言われなければ気付かなかったが、確かに飛行場の滑走路のように見える。その脇にポツンと一軒建っているのが、ハマ子さんたちのかつての住居だった。
 当時は国旗を掲揚していたのだろう。建物の前には、錆びた三本のポールがあり、家の軒下部分に「BELTERRA」の文字が記されていた。岡田夫妻が話していた、飛行場の待合室を日本人三家族で区切って住んでいたということが、改めて理解できた。
 同地には現在、ブラジル人家族が住んでいる。しばしの談笑のあと、ベルテーラを後に、ゴム移民たちが最初に上陸したピンドバウ港へと向った。
 ベルテーラの標高は百七十メートルほどだと聞いていたが、港に向う曲がりくねった砂道をさらに下っていく。
 緑の樹々が広がる前方に視界が開け、「青い海が見えた」と思ったら、それがピンドバウ港につながるタパジョス河だった。
 ピンドバウ港に到着すると、眼前には薄茶色の砂浜が広がっていた。「港」というよりは「プライア(海水浴場)」と言った方が分りやすい。河の砂浜には桟橋の残骸と思われる物体が放置され、近づいてよく見ると桟橋は可動式だった。その下の部分には錆びた車輪が砂に食い込み、河に向けて一本のレールが延びている。
 「港」は、砂浜の水面から数メートルも進むと急激に深みが増しているようで、船が着くたびに桟橋を河方向に動かし、人や荷物を乗降させていたようだ。
 この日は平日だったこともあり、観光客もほとんどいなかったが、強い陽射しが照り付ける中、子供たち数人が河辺で遊んでいた。
 岡田夫妻の話では当時、このピンドバウ港から「ラテックス」と呼ばれたゴムの樹液を、ドラム缶にして毎週三百本が運ばれていたという。
 ゴム移民の原点である「港」は、今は静かな波音が聞えるだけだった。(おわり)


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