|
サンタレンと周辺の日本人たち (2026/06/09)
パラー州サンタレン市には、フォードランジア、ベルテーラの「ゴム移民」以外に、転住してきた日本人たちも少なくない。一九七三年に発足した同地日系人協会(矢野英樹会長)には(2009年)現在、約四十家族の会員が所属し、会館を拠点に親睦を目的とした活動を続けている。同地と、その周辺に住む日本移民の家族に、渡伯当時の思いや現在の状況など話を聞いた。
(1)
サンタレン近郊の農場に住む中田正男さん(六一、北海道出身)は、パラグアイ移民として少年時代に南米に渡り、同地に転住してきた異色の体験を持つ。 陽に焼けた逞(たくま)しい身体が、農業生産者であることを物語っている。 中田家族はオランダ船の「チチャレンカ号」で海を渡り、一九五七年六月にサントス港に到着。汽車を乗り継いでブラジルを越え、パラグアイ・アマンバイ植民地のジョンソン耕地に第二次移民として入植。三年契約のカフェ農園でコロノ(契約農)生活を送った。 当時、正男さんは九歳。おぼろげな記憶の中でも、同耕地のパラグアイ人が、「自分たちの仕事が日本移民に取られる」との思いから、日本人に対して好感を持っていなかったことを覚えている。 同耕地では、カフェ(コーヒー)の本作以外の余った土地に大豆、トウモロコシ、トマトなどを植えたが、三年の契約終了後の六〇年、中田家族はブラジルに転住することを決めた。 マットグロッソ州のムッツンでの一年間の生活を経て、リオ州のマルケス・デ・バレンサで歩合制でのトマト作りを四年。同州グァピミリンなど転々と動いた後、ミナス・ジェライス州のカランダイと「良い土地を求めて」歩き周った。 カランダイではトマト生産のほかにバラ(切花)を育て、ドイツなどヨーロッパ方面に輸出。「その頃では、当時が一番(経済的に)良かった」と正男さんは振り返る。千恵子夫人(五九)とは同地で結婚。州都のベロ・オリゾンテに出て、日本人向けのレストランも営業した。 その頃、正男さんの母親・アサノさんが六十三歳で死去。伴侶を失った父親の正次さん(〇六年十一月に九十四歳で死去)は、グァピミリン時代に汽車に跳ねられて左足首を切断する大事故に遭っていたこともあり、知り合いのつてを頼って七七年に単身、現在のサンタレンに移って来ていた。 正男さん夫妻も二人の子供を連れて、八三年にサンタレンに転住。ピメンタ(コショウ)栽培に従事した。当時はピメンタの値段も良かったが、変動が激しく、ここ五年ほどは日本向け大豆の生産を行なっている。 九〇年代初頭から、アセロラ、マラクジャを中心とした熱帯果樹のポウパ(冷凍果肉)の製造販売も開始。現在ではクプアスー、グラビオーラなど十二種類に増やし、国内で年間二百トン近くを生産しているという。 それ以外に、大豆の加工品として、豆腐、納豆、油揚げなどを週一回(土曜日)サンタレン市内の中央市場で販売。千恵子夫人と長女のマチコさんが担当している。 「仕事をすることが好きですね」と正男さん本人が語るように、未だ農業に対しても熱心だ。ここ数年、土地の改良のために自ら堆肥づくりを行ない、木酢(もくさく)液も作っているという。 ポウパ作りは息子たちに任せ、最近では「血圧を下げるのに良い」などと言われるノニを栽培し、乾燥させて試験的に販売もしている。 「土地と女房は、可愛がれば可愛がるほど良くなりますよ」と笑いながら話す正男さん。サンタレンの土地の利と、自らのアイデアを生かした生産販売態勢で成功を収めている。
(2)
中田正男さんの夫人の実兄にあたる曽木一禎(そき・かずさだ)さん(七四、宮崎県出身)。現在は中田家族と同じ土地に住み、のんびりした生活を送っているが、これまでにブラジル各地を歩き回った経験を持つ。 自身は海軍兵学校のあった広島県江田島生まれで、長崎県佐世保育ち。一九四一年に戦争が始まると同時期に宮崎県に転住している。 父親の一(はじめ)さん(故人)は、職業軍人として戦前は南洋での海軍航空基地建設に携わり、終戦時は上海の第三航空隊副司令官だったという。 戦後、一さんは戦犯扱いで公職追放となり、宮崎県の開拓村に家族で入植。ところが、五三年に県営ダムが建設されたことから、開拓村は水没。当時、十八歳の青年だった一禎さんは、戦後の南米移住募集に目を付け、家族に勧めた。 当初はバイア州ウナ移住地やミナス・ジェライス州への募集も考慮したが、一さんの知り合いの宮崎県会副議長が戦前、アマゾン日本人移民の現地での受入を行なった南米拓殖会社を通じてモンテアレグレに入植していた。そのことから、戦後のアマゾン移民枠を作った「辻小太郎移民」として家族七人で一九五三年七月、「あふりか丸」により神戸港を出港した。 モンテアレグレに入植したのは、宮崎県からは曽木家族を含めて二家族のみ。自営農として三十町歩(三百メートル×千メートル)の土地に米や豆などを植えて自給生活を実践した。 土地が肥沃で、「一年で五町歩に作付けして、サンパウロまでの一家の旅費を稼げたほど」(一禎さん)だったという。 一禎さんは同地でキヨエ夫人と結婚したが、一さんが入植七年目に死去。当時、小学校しかなかったモンテアレグレでは、一緒に渡伯していた弟たちの教育問題もあり、六四年に転住することを決意した。 キヨエさんの家族が結核で療養生活を強いられ、義姉の夫がサンパウロに出ていたこともあり、一禎さんは家族を連れてサンパウロ近郊のスザノ福博村に数か月滞在した後、グァラレイマの桜・高森植民地に入植。弟たちを大学にやりながら、バラやグラジオラスなど切花を中心に花卉栽培を行ない、約十年間同地に留まった。 しかし、「花作りは、いずれ行き詰まる」と思った一禎さんは、サンタレンに行くことを考えた。サンパウロ時代、常に良い土地を求めてアマゾン地域を自分の足で歩き周った上での結論だった。 さらに、七三年頃サンタレンとマット・グロッソ州クイアバとを結ぶ道路や発電所ができ、港湾施設も整いだした。「これは将来性がある」と同地に単独で転住。ピメンタ栽培に着手し、一年後に家族を呼寄せた。 一年目こそ、「トラクターが一台も無い生活だった」が、七六年からブラジル銀行が実施した低利子の融資政策を受け、その後は十万本のピメンタを作付け。年間三百トンもの収穫を誇るようになり、同地での大規模農場の先駆けとなった。 その後、八〇年代初頭からパラー州中東部のセーラ・ペラーダの金鉱で金堀りを行なった。「儲けた金より、つぎ込んだ金の方が多かった」というが、「セーラ・ペラーダの土地が自分には一番合っていた」と一禎さんは振り返る。 金鉱で九年間を過ごし、その隣町クリオノーポリスに居た際に身体を壊し、日本に出稼ぎに行っていた娘から「日本で治療したら」との忠告を受け、九七年、ブラジルに渡ってから初めての一時帰国を果した。 しかし、日本での生活は水が合わず、二〇〇〇年頃に単身ブラジルへ。知人の紹介でサンパウロ近郊のジャカレイに土地を借り、花づくりをしていたが、〇六年頃に現在のサンタレンに戻ってきたという。 「自分では、いろいろまだやりたいと思っているけど、身体の方がついていかなくてね」と苦笑する一禎さん。渡伯当初のアマゾンの気候がやはり、肌に合っているようだ。(おわり)
|